ジーコとケンジの欲望の記録

雨ニモマケテ、風ニモマケテ、慾マミレ、サウイウヒトガ、コノワタシダ

やるぞ!って思うと力んじゃうよね。

久しぶりにブログを更新するよ。

 

一時期、「記事を毎日更新する!」と意気込んでみたものの、息切れしてしまい、1ヶ月で終わってしまった。

 

やるぞ!って思ったことができなくなる病。何でなんですかね?

 

「やりたいこと」を「やるべきこと」にしてしまうからだろうか。願望を義務にしてしまうから、心にブレーキがかかってしまうのかもしれない。

 

もっと気楽にやったらいいのに、とは思うけれど、どうしても「これをしたい」となるとガチガチにハマったルールをつくりたくなってしまう。

 

「毎日ブログを更新する。朝の電車に乗ったらスマホを開き、記事を書きながら出勤する。そして帰りの電車の中で次の日のブログのネタを考えておく。これをルーティーンにして、この作業以外にも…」

 

って、面倒くさいルールをつくる。最初の2日くらいは、それをこなして「よしよし、エライぞ、俺」って悦に浸るのだけれど、3日目からはしなくなる。ブログ更新しなきゃ、でスマホを開くのに、気づいたらネットのニュースをダラダラ見ている。ニュースからウィキペディアに飛んだり、ヤフコメ民の偏狭コメントを見てイライラしている。

 

またはTwitterTwitterで流れていくタイムラインをシュルシュルしたり、拡散したり、ツイートしたりする。

 

Twitterは良い。気づいたこと、見たこと、知ったことを気楽に投稿できる。誰か特定の人に向けているわけではないから、気を使わない。

 

「今日のお昼はサラダチキン。タンパク質とってマッチョになる。今夜もジム行って頑張っちゃうぞい☆」

 

とか

 

「死にたい、死にたい、死にたい。もう、生きてるの疲れた。生まれてこなきゃよかった。なぜ俺は生まれてきたのか…」

 

とかとか

 

「おちんちん、おちんちん、おちんちん。おちんちん、びろーん。おちんちん、Be long!!」

 

とかとかとか。

 

そんなものを投稿し放題である。

 

「別にそんなことを喋りたいならば、わざわざTwitterなんて使わなくてもいいのでは? そんな人格の疑われるような発言を全世界に発信することに抵抗はないのか?」

 

と思われるかもしれない。だけど、抵抗はない。むしろ、それが良い。Twitterは麻薬だ。

 

Twitterにはほぼ毎日投稿する。1週間分のツイートを繋ぎ合わせたら原稿用紙数十枚はいきそうな感じである。

 

それならば、なぜ、Twitterは投稿できるのに、ブログは数ヶ月も更新できないのか。それだけTwitterにパコパコと投稿できるなら、ブログもパコパコできるのでは?

 

きっとそれは「やるぞ!」と思うかどうかなのだと思う。Twitterは投稿頻度とかは全く考えていない。1日にいくつツイートするとか、そういうことは考えていない。考えていないからこそ、パコパコ投稿ができるのだと思う。

 

もし「毎日10個のツイートを投稿するぞ!」とか目標みたいなものを立てたら、逆にツイートをしなくなる気がする。

 

それなら、

 

「ブログは毎日更新しない。いや、ブログ自体やらない」

 

という目標(?)を立てたら、ブログを更新するようになるのではないか。

 

いや、そしたら一生、ブログに手をつけることなく終わるか。

 

どうしたらいいんだ、どうすればいいんだ、どうやったら…

 

肩肘張らずに、もっと気楽に投稿したらいいんだけどね。だがしかし、その「肩肘張らない」というのがどういう状態なのか分からない。逆に「肩肘を張らない!」という目標みたいなのをつくりだしてしまいそう。

 

面倒くさいな、自分…

 

ぇ、なんでこの記事が投稿できたのかって?

 

それは朝の電車の中で、気がついたら勝手にアプリを開いて文章を打っていたからだ。そしてブログ書きたい欲は突発的に起こった。

 

本当は電車の中で読書する予定だった。昨日の帰りに買った本を、今日、往復の電車の中で読む予定だった。

 

読書する、という予定から目を背けた結果が、今日のブログ記事を更新するということだった。

 

つまり、そういうことなのである。賢明な読者ならば、もうお分りいただけたかと思う。そういうことだ。そういう感じの雰囲気なニュアンスっぽい話的なものなのであるかもしれないのである。