【読書感想文】爪切男『死にたい夜に限って』
タイトルから、非モテでネクラな男の叙情的なエッセイかと思って購入したら、とんでもなかったwww
恋人と同棲しながら、過去の自分を回想していくエッセイ。初恋は自分の自転車を盗もうとしていた女で、初体験は冬木弘道似の車椅子の女で、初めての恋人は変な宗教を信仰しているヤリマンで…と壮絶な体験をしていて、驚かされることばかりだった。そして同棲している恋人は精神病を発症して、彼女の狂気と格闘する日々。
それを不幸な話として書くのではなくて、面白く書いており、読みながら苦笑してしまう。文章も巧く、その情景が浮かんでくる。特に、風呂に入らなくなった時の彼女の体臭の描写が生々しくて好き。その臭いに欲情する著者の変態性も好き。
同棲していた彼女との別れから始まり、彼女との出会い、心を病んだ彼女との同棲生活と時間が流れ、最後に彼女と別れる話で終わる。
読み終わった後で、もう一度、最初の別れの話から読むと、最初に読んだ時とは違った気持ちで読める。この展開の作り方は秀逸だと思った。
ここいらで生産性のない話をしよう
東京のゲイタウン、新宿2丁目。その2丁目を抜ける交差点を渡ると、マルイメンがある。そのマルイメンの入り口にレインボーの旗がなびいていた。
レインボーといえば、LGBTの方々のシンボルとなる色。以下はウィキペディアからの引用。
レインボーフラッグ(直訳: 虹の旗、英語: rainbow flag, LGBT pride flag, gay pride flag)はレズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー (LGBT) の尊厳と LGBTの社会運動を象徴する旗。1970年代から使用された。フラッグに使われた色は LGBTコミュニティの多様性を表し、LGBT の権利パレードの一種ゲイ・パレード(プライド・パレード)でしばしば見られる。
新宿2丁目が近いから、LGBT的な意味が込められているのか。はたまた、ただの飾りか。そう思って近づいて見てみたら、こんな文言が書かれていた。
「ENJOY DIVERSITY!」
DIVERSITYとは多様性とか違いみたいなこと。つまり、自分たちの違いを楽しもうということなのだ。
カッコいいな、と思った。自分たちのマイノリティを否定するのでもなく、楽しもうとしているところ。自分たちは大多数の人とは違うかもしれないけれど、別に悪いことではないし、むしろそれを楽しんじゃえばいいという気概を感じられる。
俺はB寄りの異性愛者だから、マイノリティで悩んでいる人の気持ちを理解は100%できないが、LGBTについて本を読んで考えたことはある。
だけど、別に勉強するとかそういうことではなくて、ただ「世の中にはいろんな価値観がある」というのを受け入れるだけだ。「男は女に、女は男を好きになる」というのは、そういう人たちが世の中に多いだけであって、そうじゃない人たちもいるということ。それを受け入れるだけなのだ。
よく、相手がゲイだと分かると「おまえ、同性愛者なの?俺のこと恋愛対象として見ないでよwww」という男がいるけれど、それは全く違う。それは女の子から「あなた異性愛者なの?私のこと恋愛対象として見ないでよwww」と言われるのと同じことだ。それを言われたら、きっと「女なら誰だって言いわけじゃないから。自惚れるな!」と彼女に反論するだろう。彼らも同じ「同性なら誰だっていい」というわけではない。
または「おまえ、同性愛者なら、男の俺に触られて嬉しいんだろ。ドキドキしてるんだろ?」とか言いながら相手の体をベタベタ触ったりするのも違う。それは、女の子に「お前、異性愛者ならば、男の俺に触られて嬉しいんだろ。ドキドキしてるんだろ?」と言いながら体をベタベタ触っているのと同じことだ。どちらも完全なセクハラである。同性も異性も関係ない。
同性愛を否定するものに「子供ができないから」というものもある。子供ができないから生産性がない。それは確かにそうで、どんなに頑張っても子供をつくることはできない。
しかし、その理屈なら、子供をつくらない夫婦も生産性がない。子供をつくれるのにつくらない夫婦を、もっと言及すべきだ。「でも、つくろうと思えばつくれるから」というのならば、病気等で子供をつくれない体の夫婦はどうなるか?
同性婚を認めれば同性愛者が増える、というのもある。同性愛は生まれつきのものであって、性癖ではないし、治したりすることはできない。そもそも病気ではないのだから「治す」という概念を持つこと自体が間違っている。異性愛者が同性を好きになるように「治す」ことを強要したらどう思うか?
ただ、たまにLGBTの方々が声を大きくし過ぎて、攻撃的になっていると感じることもある。自分たちの性的指向を受け入れてもらうことは大事なことだけれど、その気持ちが暴走してしまっては、「やっぱり同性愛者は変な奴が多い」とさらに差別感情をあおってしまうのではないかと危惧している。
なんだかまとまりがなくなってしまったけれど、生産性のないこの記事はここいらで終わりにしようと思う。
ゲイのボクから伝えたい 「好き」の?(ハテナ)がわかる本──みんなが知らないLGBT
- 作者: 石川大我
- 出版社/メーカー: 太郎次郎社エディタス
- 発売日: 2011/01/11
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- 購入: 1人 クリック: 14回
- この商品を含むブログ (4件) を見る
決まりを守らないことはできない俺の話
ある日、俺は駅から自宅までの道を自転車で走っていた。時間は0時過ぎくらいだったと思う。
途中、赤信号だったので止まった。だが、遅い時間だったので車は走っていない。周囲に人の姿もない。しんと静まりかえっている中、赤信号が俺の帰りを妨害している。
「いいや、渡っちゃえ!」
俺はペダルに足をおいて赤信号を突破した。車が通らないのに立ち止まっている時間ほど無駄な時間はない。早く帰りたかった。
その日は運が悪かった。信号を渡った先にパトロール中の警察官が2人、立っていたのだ。しかし、少し距離があったことや別の方向を向いていた為、向こうは俺の信号無視に気づいていない様子だった。
俺はすぐにハンドルを返して別のルートを走り出した。俺が認識していないだけで、もしかしたら彼らは俺の信号無視を見ていたかもしれない。あるいは、俺が来るのを待ち構えているのかもしれない。自ら火の中に飛び込むなんて馬鹿げたこと、できるものか。
そして警察の視界から姿を消し、ほっと胸をなで下ろした。あとは、少し遠回りをしていけば大丈夫。いやぁ、ヒヤヒヤしたぜ・
「ちょっと、すみません、止まってください!」
その時、バイクの音と同時に後ろから俺を呼び止める声がした。ドキッとして振り返ると、そこには1台の白バイに乗った警察官の姿が。
しまった、逃げられなかったか…
抵抗すると事態を余計にこじらせるだけだと考えた俺は、素直に警察の停止の命令に従った。
そして逃げも隠れもしないという素振りをし、警察館と対峙した。
「はい、どうかしましたか?」
「今、あなた、私たちの姿を見て急に道を変えましたよね?」
「え、そうでしたか?」
「はい、私たちにはそう見えました。何かやましいことでもあるのではないかと?」
何か嘘を言わなくては!と一瞬考えたのだが、これまでの人生経験から嘘をついたところでロクなことが起こらないことは学んでいる。嘘をつくことで話が余計にややこしくなるのは避けたい。
「えっと…その…信号無視をしてしまいまして。信号無視をした先に警察がいたので、マズいと思い…その…思わずハンドルを切ってしまいました」
「じゃぁ、守れや! 悪いことをしているという認識があるならば、ちゃんと信号は守りなさい」
急に説教モードに変わる警察官。
「今、話を聞きました。どうやら信号無視した為、我々の姿を見て逃げたそうです」
肩の無線を外して、おそらくもう一人の警察官であろう人へ連絡している。
そして再び俺に向き直り、信号無視したことを叱責。それから俺の乗っている自転車が盗難車ではないか、番号をとられて本部らしき場所へ照会された。盗難車ではないことを確認すると「信号は守って」と最後に念を押され、俺は解放された。
それ以来、俺はその信号はしっかりと守るようになった。先日、その信号を無視した人が、渡った先で警察官に注意を受けているのを見た。危ない。本当に無視して渡った先にどんなトラップが待っているか分からない。
悪いことはするものではない。どこで誰が見ているか分からない。そんなことを考えてしまう俺は、この先、決して悪人にはなれないのだということを痛感した。いや、なってはいけないんだけどね。
Macにシールを貼る、ということについて
Macは美しい。
コンピュータとして使えるだけではない。それをもっているだけで、嬉しくなるし部屋に置いておくだけで映える。なぜ、こんな芸術的なコンピュータが評価されないのか。なぜ、世の中はWindows向けに出来てしまっているのか。
そしてそんな芸術品としての価値があるMacにシールを貼る人たちがいる。Macにシールを貼ってもいいのかという問題は、Macユーザーの大きな論争となっている。それがいつか戦争へと発展しかねない状況だといっても過言ではない。
俺はどちらかというと反対の立場をとっている。特に俺が解せないのは、貼っているシールは往々にして企業のロゴのものが多いということ。LINE、Facebook、Twitter、GitHub、クックパッド…エトセトラエトセトラ
なぜ、みんな企業のロゴシールを貼りたがるのか。その人には、そんなにたくさんのスポンサーがついているのか。そして、そのMacはスポンサーからの資金で購入しているのか。
企業のシール以外なら許される、という訳ではない。せっかくのMacをシールでベタベタにして、「これが俺のMacだぜ(ドヤァ」とかやっている人は、個性の主張の仕方を間違っていると思う。
だいたいAppleの気持ちを考えたことがあるのか。カリフォルニアでデザインされた、自分たちの芸術品をそんな風に勝手にデコレーションされるだなんて不本意に違いない。デコレーションする必要がないくらい洗練したデザインにしているに。Appleのデザイナーのジョナサンアイヴも怒り心頭だろに発していることだろう。
だからMacには何も貼らず、そのままを使うべきだと思う。
Appleもそう思っているはず。
…と思ったら、Appleがこんな動画をつくっていた。Macを利用しているアーティストを紹介する動画である。
お分かりいただけるだろうか。
この女性は、Macにビックリマンシールを貼っているのである。
なんということだ…
これは…
くそダセェ…
しかし、だ。こんなシールベタベタのMacを、Appleが公式に「こんな風にMacを活用してる人がいますよ」として広告をうっている。これはつまり、Appleは「Macにシールを悪とはしていない」という見解を示しているということか。
ええんか?
Macにシール貼っても、
ええのんか…?
そう思うと、Macにシールを貼って「これが俺のMacだぜ(ドヤァ」とやるのも悪くない気がしてきた。
考えがこの広告を見てひっくり返った。
やっちまうかな、俺…
レジーナたんは引きこもりたい
今年で一緒になって7年目になる、レジーナたん。
そう、MacBookProである。
初めてRetinaディスプレイのMacBookを買ったのでRetinaからレジーナという名前をつけた(というか、そもそもMacBookPro 13インチ初のRetinaディスプレイ搭載モデルだった)
発売が2012年で、発売後にすぐに買ったから満6年。iPhoneは2年だけの関係なのに対し、彼女はずっと母艦PCとして俺を支えてきてくれた。
そんなレジーナたんだが、去年頃からバッテリーに気になる文字が表示されるようになった。
「バッテリーの交換修理△」
ググってみたところ、バッテリーが劣化しているので交換をしてね、というものだそうだ。調べたらバッテリーの充放電回数は113回だった。
確かにバッテリーの減りの早さを感じるようになった。しかもまだ30%は残っていたはずなのに電源が落ちる、という事態も発生していた。
まぁ、自宅で使うのは電源をつなげばいいのだから何ら問題はない。だがしかし、これでは外に持ち出すことが出来ないではないか。外に持ち出すことが出来ないということは、休日、外でプログラムの勉強することが出来ないということである。
「いや、プログラムの勉強を外でする必要なくない?」
と思うかもしれない。しかし、それではダメなのだ。ほら、俺って、休日ずっと家にいると病んでしまうじゃないですかぁ?
それまで、レジーナたん(MacBookPro)とは別に、外に持ち出す為のMacBookを利用していた。エンジニアを目指していた頃、仕事帰りにスクールやカフェに寄ってプログラムの勉強をしていた。俺が苦労していた時に支えてくれた相棒だったのだが、去年、金欠でお金をつくる為に売ってしまった。なかなか薄情な自分に驚いた。
MacBook無き後、MacBookProを持ち出し機にしようとしたのだけれど、このようなバッテリーの状態だから、持ち出すにも電源アダプターが必要になる。それでも出先が電源利用可でなければアウトだ。
どうしたものかと調べたところ、アップルストアに持っていけば2万円程度で即日修理してくれるとのことだった。そこでアップルストアへ持ち込んでみたのだが
「あー、これはビンテージモデルになってますね。もう、昔のマシンなのでパーツの生産が終了しちゃっているんですよ。在庫も無いので、せっかく持ってきてもらったところ申し訳ないのですが、バッテリー交換はできません。電源アダプター繋げて使っていただくか、もしくは新しいMacBookProへ買い換えるかのどちらかですね」
なんてこった。ぱんなこった。
バッテリー交換ができないだなんて。
その日から俺は考えた。選択肢は2つ。新しいMacBookProを購入するか、持ち運びに特化したMacBookを購入するか。
説明するとMacBookとMacBookProとは「持ち運び重視」か「性能重視」かの違いだ。MacBookは0.9㎏と1㎏を切る軽量さと薄さが特徴。持ち運ぶのにはとても優れているのだが、その分、性能は劣る。動画の編集みたいな重たい処理には使えない。あくまでもメインで使うマシンをもっていて、そのサブとして使うのがMacBookだ。
一方で、MacBookProは名前に「Pro」とついているので性能は高い。動画編集は当然のこと、Windowsを入れてMacとWindowsの同時使いみたいなこともできる。質量は1.3㎏とMacBookに比べて重く、値段も25万円弱する。ちなみにMacBookは14万円ほど。
さて、どうするか。持ち運び重視でMacBookにすべきか。それとも、メインパソコンごと変えて二代目レジーナたんとして襲名させるか。いうて1.3㎏なら持ち運べそうだしな。ちなみに今のMacBookProは1.6㎏だ。
悩みながらダラダラとスマホをいじっていると、「ヤフオク」のページを開いていた。
そこで何の気なしにMacBookと入力して検索すると、残り1日で7万円になっているものを発見した。
マジか。もしも、MacBookを7万円で落とせたら、そしてそれを持ち運べたら、俺のプログラム学習はサクサクと進むはずだ。7万円だったら分割にしても年内には完済できるだろうし。
そんなことを考えていたら、いつのまにか入札していた。定価だと15万。それを7万円で買えるならいいだろう。この先上がっても10万円。10万円までなら出そう。
…って思っていたら、10万円で落札してしまった。落札してから「しまった」と思った。ただでさえ今は金欠なのに、そこへさらに10万円の買い物をしてしまうだなんて。
やっちまったな。なんでこんなことをしてしまったんだ。
「でも、落札したものは取り消せないし。それに落札できたということは、きっとこれは神からのお告げなのだな」
後悔は数秒で終わり。やってしまったら仕方ない。これはもう突き進むしかない。
そして届いたよ。MacBook。
2回目のMacBook。
ということで、レジーナたんは自宅で動画編集など重たい作業をする時に母艦PCとして使用する。
MacBookは外で使う。外で使うとなると、外に出なくていけない。外に出ると鬱にならない。鬱にならないと、色んなことに対して意欲的になれる。色んなことに対して意欲的になれるということは、生産の上がる生活ができる。それはつまり、大金持ちだ。大金持ちからの大爆笑だ。
考えてみてほしい。これで俺の生産性が上がるかもしれないのだ。10万円の投資で、10万円以上のリターンを、このMacBookで手に入れたら良いんだ。
大丈夫、俺ならできるよ、大丈夫。だって、今もこうしてMacBookでブログを更新しているのだから…
さっそくキャッフェにMacBookを持ち込んだし。
どやぁ!
だけど時間はいつも無い
成功者の条件の一つは「ポジティブシンキング」なのだという。常に物事を前向きに考えていけば建設的なアイデアも浮かぶし、表情も明るくなるから自然と人が集まってきやすくなる。そんな話が色んなビジネス書に共通して書かれていた。
それについての例えでよく出されるのが「半分のコップ」の話だ。
「コップの中に水が入っている。これを『半分しか入っていない』と考えるか、『半分も入っている』と考えるか…」
後者はポジティブな考え方。無いものを嘆くよりも、今あるものを最大限に生かしていこうということなのだろうか。なるほど、確かにこういう考え方ができる人は成功しそうな気がする。
しかしその理屈なら「まだ日数はたっぷりある」と涼しい顔をして、夏休み最終日に夜中まで宿題を片付けていた俺は大成功者になっているはずである。
先週は3連休だった。この3日間で、積ん読本や録り溜めていたテレビ番組を消化したり、プログラムの勉強をしたり、ブログ記事を書き溜めていくつもりだった。先週の金曜日はそういう週末を予定していた。金曜日の夜は意気込んでいた。3日間も自由にできる時間があるのだから、予定は全て実行できると思っていた。
そして連休明けは
「よぉし、充実した休みを過ごせたぞ。さて、今週からまた頑張るぞい!」
という気持ちで仕事を始める予定だった。
しかし、である。本は1冊だけ(1冊も、といえばいいのか?)しか読まず、撮り溜めた番組は1度も再生されず、プログラムの勉強も進まず、ブログ記事はその日のものを更新しただけだった。
連休最終日に「これはマズい」と危機感をもった俺は、今日これまで何をしていたのか振り返る為に1時間ごとにやったことを手帳に記録しようとした。そしたら今度は「1時間ごとの記録をつける」という計画さえも失敗に終わった。
「まだ半分も入っている」という思考でいたら、全てが失敗に終わってしまったのだ。そして連休明けの今朝は「何もしなかったな…」という自己嫌悪がのしかかった状態で職場に向かっている。何がポジティブシンキングか、と言いたい。
そもそも、誰がこの「半分のコップの話」をし出したのか。「コップ 半分 まだある」で検索してみたら、ある記事にこんな引用をしているものを見つけた。
「コップに『半分入っている』と『半分空である』とは、量的には同じである。だが、意味はまったく違う。とるべき行動も違う。世の中の認識が『半分入っている』から『半分空である』に変わるとき、イノベーションの機会が生まれる」
一時期流行った「もしドラ」で、その名を知ったドラッカーの言葉である。もしかして彼が最初に言い出したのか?
もしそうだとすれば、これは「半分空である」の方が良いみたいな言い方に捉えられる。イノベーションの機会は「半分空である」の時に生まれるのだから。
良い行動がとれるのは「半分しかない」の方だということか。
それならば、これからは自分に時間のプレッシャーを与えていくようにしなくてはいけないな。3日間ある、ではなくて、3日間しかない。
そうやって自分を追い込んでいくようにしよう。そもそも俺は「褒められて伸びたいけど、叱られて伸びるタイプ」だったことを思い出した。他人に叱られる前に自分を叱らないと。ぼーっと生きてんじゃねぇよ!ってね。
引用元はこちら
ドラッカーが説く「コップの水」理論とは? | リクナビNEXTジャーナル
もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら (新潮文庫)
- 作者: 岩崎夏海
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2015/11/28
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログ (6件) を見る
大人になって流行にのれるようになった俺の話
世の中の「大人」の方々は、今の流行を追えなくなったり、流行にケチをつけ始める生物だと思っている。若者が楽しんでいる姿を横から見て「それの何が楽しいのか。最近の若い子は分からない」と否定するのが、大人。「あの頃はよかった」と想い出に浸るのが、大人。
だけど、俺は大人になるにつれ、流行に対して寛容になってきている気がする。
小学生の頃、俺はみんなと同じものを好きになるのが嫌だった。そして、みんなが聴いている音楽やテレビ番組、漫画などを否定することこそが、大人だと思っていた。みんなよりも大人でありたい、という背伸びが完全に間違った方向へいってしまい、とにかく流行というものを否定していた。「最近の若い奴らは…」と言ってみることで、周りよりも上に立てている気持ちになれた。
プリクラは絶対に撮らない主義を貫き、若者言葉を聞けば「日本語が乱れている!」と喚き、アイドルを「顔がいいだけでテレビに出られている頭の悪い奴ら」とこき下ろし、流行っていたテレビ番組も「くだらない!」と見たこともないのに否定していた。小学生の頃から一丁前に文庫本を持ち歩いていたから、マンガなんて頭の悪い奴が読むものだと決めつけていた。
それは小学校高学年くらいにピークを迎え、懐メロや演歌を聴いては「やっぱり、昔の日本の曲が最高だ。愛とか恋しか歌わない今の歌とは大違い」と感慨に浸り、安室奈美恵やSPEEDや小室ファミリーやGLAYやスピッツで盛り上がる流行の音楽を徹底的に拒否した。サザンオールスターズはその時から好きだったが「彼らは『最近の若いアーティスト』じゃないからいいんだよ!」という理由で正当化していた。
流行を否定しなくなったのは、大学生になってからだ。その時、レンタルビデオ店でアルバイトをしていたので、自然と流行の音楽や映画などの情報が入ってきたし、自分もそれを取り入れようという気持ちになれた。
そして大人になるにつれ、流行を否定する姿勢から受け入れる姿勢が強くなっていった。TSUTAYAのCDランキング棚にあるシングルCDを上からレンタルして聴いてみるなんて、昔なら絶対に考えられなかった。
大人になってから流行にのることが面白いと思うようになった。流行にのることで、世界が広がっていき、世界と繋がっている感じがする。仮にそれが自分に合わなかったとしても経験は得られるし、「なんでこれが流行しているんだろうか?」と社会を俯瞰してみることも楽しい。
だからこそ、流行を否定することが格好いいと思っていたことをとても悔やんでいる。ドラゴンボールやスラムダンクを観ておけばよかったな、もう少しアイドルとかに興味をもてばよかったな、漫画をもっと読んでおけばよかったな…エトセトラエトセトラ
同世代で過去の話をしても、話題についていけないことがある。そういえば学生の頃、付き合っていた彼女から「ドラゴンボールを読んだことがないだなんて、あなた人生を損しているわよ」と笑われたりもした。
否定することは簡単だし、否定することで自分が優位に立てたような気持ちになる。しかし、それによって自分の世界を狭めてしまうし、世間からどんどんと取り残されていく。
大人になってからそのことに気づけた。逆に子供の頃にそれをやってよかったのかもしれない。
これからは世の中の動きに寛容になっていけそうな気がする。