ジーコとケンジの欲望の記録

雨ニモマケテ、風ニモマケテ、慾マミレ、サウイウヒトガ、コノワタシダ

手首に刻まれた闇のようなもの

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最近、心に闇がきてる気がする。

 

心の闇、病み、そしてyummy。

 

そんな中で、俺は同じく闇を抱えているものに出会ってしまった。

 

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駅のエスカレーターの手すりである。

 

よく見ていただきたい。

 

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お分かりだろうか。

 

この手すり、リスカ跡がある。

 

病んでいるエスカレーターだということを。

 

そう、エスカレーターでさえも病んでしまうのだ。

 

そして、こんなものさえも闇を抱えている。

 

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赤筋大根。

 

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ザクザクである。

 

エスカレーターだって、大根だって病んでいるんだ。だから人間が病むのは当たり前なのである」

 

そう考えたら、少しは気持ちは楽になるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…いや、ならない。

 

「ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、みんなみんな生きているんだ」

 

そう考えたら、少しは自分が生きていることを実感できるようになるだろうか。

 

いや、ならない。

 

友達なんだ!って思うようになるだろうか。

 

いや、ならない。

 

つまり、そういうことである。

 

画像出典(赤筋大根)

☆赤筋大根、出ました…!! : 江の川のほとりから

なぜ俺は、自己肯定感が低いのか?

俺は自己肯定感が低い。
 
自分はダメな人間だ、と常に自分を罵倒しながら毎日を生きている。
 
何か失敗をしてしまった時はもちろんだが、何でもないときでも自分を責め続けている。休日に昼頃まで寝ていれば「せっかくの休みをダラダラしている俺、死ね」となるし、休日に読もうと思った本を読めずにいると「やろうと思ったことができない俺、死ね」とかなる。
 
自分の心が安まる時間は、眠りについている時くらいなものだ。
 
自己肯定感の低さは、成功体験がないということもそうなのだが、子供の頃に褒められた経験がないことも影響しているのだという。小さい頃から、「お前はダメな人間だ」と言われ続けると、自己肯定感の低い人間になってしまうらしい。
 
母と以前、自己肯定感について話すことがあった。
 
「自分にダメだ、とかそんなに思い詰めることかしらね。だって、人間には得意不得意があるのだから、出来ないことがあるのは当然じゃない? だったら、自分ができることに力を注げばいいんじゃないかしら?」
 
「いや、自己肯定感の低い人は、そもそも『自分には得意なことは何もない』と悩んでしまうから。得意なことを伸ばすとか以前の問題なんだよ」
 
「分からない。どうしてそんな風になっちゃうのかしらね?」
 
「どうやら、子供の頃に褒められた経験がないのもあるようで、子供の頃に『お前はダメな奴』と叱られた経験を持っていると、自己肯定感の低い大人になるらしいよ」
 
「ふぅん、そんなものかしらね」
 
「俺も小さい頃は、ずっと親に『お前はダメな奴』って言われて育ったからね。だから今、自己肯定感の低い人間になっちゃったんだよ…」
 
言ってから「しまった」と思った。
 
冗談っぽく言ったつもりだったが、この言い方は俺の育て方を紛糾しているように捉えられてしまうではないか。
 
だからこのあと、
 
「私のせいだと言いたいの? そんなことない。私はあなたを褒めて育てたつもりよ!!」
 
と反論されるとドキドキして次の言葉を待った。
 
しかし、俺が冷や汗を流している中で、母は突然、俺に頭を下げた。
 
「ごめんなさいね。確かに私はあなたを叱ってばかりいたかもしれない。
 
だって、あなた、みんなといつも違う行動をとるんですもの。家族と行動していても一人だけ違う動きをする、弟たちがちゃんと従っているのに、お兄ちゃんのあなたはいつも勝手なことをしている。気がついたら、みんなと違う方向を向いて一人だけ違うことをしている。
 
そんな姿をみたら『どうしてみんなと同じようにできないの!!』って怒ってしまいたくなるわよ…」
 
そうか…
 
そうくるのか…
 
そこは、反論しないのか。
 
そんなことない!って噛みついてこないのか。
 
それはそれで、逆に寂しい気持ちになる。
 
「あなたがここまで大きくなれたのは誰のおかげだと思っているのか!」
 
ぐらいに感情を露わにして欲しかった。
 
認めないで欲しかったな。
 
そういうわけだから、俺がいつも「自分、死ね」って思っているのは、親が俺にした「お前はダメな奴」という叱責が原因だ。
 
だから、仕方ないのである。
 
ぇ、何ですか?
 
「それはただの言い訳じゃないのか? 子供の頃、親にどんなことを言われたって、ちゃんと自分に自信がある人だっているのだ。自分がダメなのを親の育て方にするのは、違うと思う。そうやって責任を転嫁しているうちは、いつまでも君は自己肯定感の低いままの人間だぞ?」
 
ですって?
 
うるせぇ、死ね。
 
そうやって正論を振りかざす、お前が、死ね。
 
俺は死なねぇ。

継ぎ足されてきた何か…

犯罪ではないけど、これをやったら犯罪者のような扱いを受けるようなことがある。

 

何ヶ月もかけてみんなで作ったドミノを発表日前日に崩してしまうとか、サプライズのケーキをサプライズ直前で潰してしまうとか、けん玉ギネス記録への挑戦を自分のミスで台無しにしてしまうとか。

 

そんな罪名なき犯罪の中で、なかなか重たい罪じゃないかと思うのが

 

「創業以来、何十年も継ぎ足されてきたタレを、ひっくり返す」

 

ということ。

 

これはなかなか重罪だと思う。先代から代々受け継がれてきたであろう伝統のタレを、一瞬にして下水に流してしまう。

 

もし俺が、継ぎ足しのタレを使った老舗で働いたら、絶対にその失敗をする自信がある。そして、激しく叱責される自信がある。

 

「てめぇ、何てことしてくれたんだ!! これはな、50年という長い間継ぎ足されてきた伝統のタレなんだよ。

 

両親がてめぇの種仕込んでる時も、てめぇがママのおっぱいをチューチューしてる時も、てめぇが鼻水垂らして『うんこちんこ』で笑ってる時も、てめぇが女のこと考えて毎晩部屋で精子飛ばしてる時も、てめぇがサルみてぇに女とパコパコしてる時も、ずっとずっとずっと、このタレは継ぎ足されてきたんだよ。

 

その伝統を、てめぇは今、途切れさせやがった。選べ、てめぇの人生みたいに薄っぺらく下ろされるか、永遠に水を継ぎ足されて二度と陸の空気を吸えないようになるか、選びやがれ!!!!」

 

と包丁の切っ先を喉元に向けられ、怒鳴られるんだろな。怖い。

 

だけど、俺はこの「継ぎ足しのタレ」について、ずっと疑問に思っていた。創業50年の継ぎ足しのタレの中には「50年物」は存在しないのではないだろうか。タレを継ぎ足したら、その時点でタレの新旧が混ざる。例えば、コップ1杯のタレを汲んできて、その成分を調べたら、50年前のタレ成分は何%含まれているのだろうか。

 

俺はいつもテレビで「創業以来継ぎ足されてきた伝統のタレ」みたいなのが紹介される度に「それって本当に凄いの?」と訝しんでいた。

 

というか、もし本当に50年前のタレが存在していたら、逆に気持ち悪い。50年もいて腐らないのだろうか。ワインみたいに熟成するということか? いや、ワインだってコルクを開けたら痛み出すだろう。

 

そう思っていたら、先日、何かのテレビ番組で、この継ぎ足しのタレについて取り上げられていた。

 

「継ぎ足しのタレはどうして腐らないの?」

 

という疑問を検証するコーナーだった。継ぎ足しのタレを使っている店の人にインタビューしても、首を傾げている。

 

「糖分や塩分が多いからじゃないですか?」

 

「熟成してるからじゃないですか?」

 

「食材に含まれる酵素的なのがいい感じに殺菌してくれてるからじゃないですか?」

 

継ぎ足しのタレを使っているけど、みんな分からない。

 

ボーッと生きてんじゃねぇよ!!

 

老舗のご主人がお茶の間に醜態を散々晒されて、正解が発表される。

 

「継ぎ足しのタレは、1ヶ月と経たないうちに中身が全て入れ替わってしまうから!」

 

えっ!?って思った。

 

インタビューを受けた店の人たちも正解を知って「えっ!?」って言っていた。

 

そして検証実験が始まった。赤色と青色の2色の水を用意する。赤色の水が入った水槽からコップ一杯分すくって捨てる。そこへ、捨てた分の量の青い水を足す。よくかき混ぜてから、再び水槽からコップ一杯分の水を捨て、そこへコップ一杯分の青色の水入れる。

 

それを何度か繰り返す。最初は赤と青が混ざって紫色になっていたのだが、20回を超えた辺りから水槽の水が継ぎ足された青色になっていく。やがて、水槽の水は完全な青色になった。

 

継ぎ足しのタレはそんな仰々しいものではなかったのだ。だから、例え50年継ぎ足されたタレをひっくり返そうとも、そのうちの最も古い成分はたかだか1ヶ月程前のものなのだ。1ヶ月前のものをひっくり返されたのだから、全く騒ぐほどのことではない。

 

「創業時のタレをタイムマシン乗って取ってくるか、いますぐ死ぬか、選べ!」

 

と無茶な要求をされても、涼しい顔をしていたらいい。

 

「お言葉を返すようですが、私が溢したタレのうち、最も古い部分はせいぜい1ヶ月程前のものですよ? 50年前に仕込んだタレなんか、とっくに無くなってますよ?

 

まぁ、1ヶ月前だろうが過去に戻ることはできません。しかし、この先の1ヶ月なんてあっという間に過ぎていきます。

 

たかだか1ヶ月の為に、あなたは私を殺して犯罪者になるおつもりですか? 1ヶ月前のタレを台無しにされたくらいで、あなたのこれからの何十年の人生を台無しにしてもいいのでしょうか?」

 

相手は言葉に詰まった。向けられた刃は、力を失って俺の喉元から離れていく。そして彼は顔を伏せ、大きな呼吸を一つすると、再び俺の顔と向き合った。

 

そこには、何かから解放されたような、スッキリとした顔があった。

 

「確かにそうかもしれないな…

 

実は俺も薄々気づいていた。このタレの中に、50年前のものが混ざっているなんてことはないと。

 

そして俺は最近考えるようになった。何が楽しくて毎日『伝統』と向き合っているのだろうかと。

 

てめぇの言葉を受けて、俺は分かったよ。伝統に生かされていることも大事かもしれない。でも、今を生きることも大事なのだと。

 

ありがとう、てめぇが継ぎ足しのタレを溢してくれたことで、俺は大事なことに気づけたよ。いや、本当はずっと前から気づいていたのかもしれない。気づかないようにしていただけなのかもしれないな。

 

本当に…ありがとう」

 

お互い、目から涙をこぼしていた。床を流れるタレに2人の涙が混ざり合う。今までずっと狭いタレ壺の中にいたタレたちは、広くて自由なこの風景を、そして俺たちをどんな気持ちで見ているのだろうか。涙が止まらない…

 

相手は俺をギュッと抱きしめた。先ほどの剣幕が想像できないくらい優しい抱擁だった。この道何十年という歳月を、彼はこのタレと共に過ごしてきたのだ。彼の無骨な腕に抱かれ、不器用ながらも真っ直ぐな「漢」の姿を、俺は全身で感じていた。

 

すると俺の背中で、何かがプツリと弾けた。その場所から、何か熱いものが滲み出てくる。全身から冷たい汗が流れていく。

 

何が起こったのか把握しきれない。奴は俺の耳元に口を近づけ、囁いた。

 

「でも、それはそれ、これはこれだ。タレにかけた俺の人生、てめぇの命で償え…」

 

50年もの間継ぎ足されてきた暗黒色のタレと、俺の体内で何十年も継ぎ足されてきた暗赤色のタレが混ざる。

 

そういえば、暗赤色の方のタレは120日間で全てが入れ替わると聞いたことがある。

 

俺の方が凄い…継ぎ足しのタレなんかより…継ぎ足しの俺の…俺の…

いなか、の、じまん

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生まれも育ちも東京寄りの埼玉の俺。

 

中学で池袋で遊ぶことを覚えたし、高校は都内だったし、大学は新宿駅が乗り換え駅だった。

 

物心ついた頃には東京でうぇいうぇいしていたから、東京への憧れを抱くことはなかった。だから、地方の人が抱くであろう東京への憧れみたいなものに、憧れをもっていたりする。東京へ行って「都会はもんげーところずらぁ…」とか圧倒されるような経験をしてみたかった。

 

方言とか喋りたかった。標準語と地方語のバイリンガルじゃん。

 

断っておくが、地方の人をバカにしているワケではない。

 

だから、地方出身の人たちが繰り広げる、地元のあるあるトークをされるとついていけない。そして、地域は違えども、何か通じ合っているのを見るのが悔しい。

 

「ジャンプは火曜日発売だと思ってたよね」

 

「東京に来てテレビのチャンネルの多さに驚いた」

 

「自宅に鍵をかけたことがない」

 

「ほとんどのコンビニに駐車場が無いか、あっても小さすぎてビックリした」

 

「都会の人、歩くの速過ぎでワロタwww」

 

と盛り上がっているとそこに入れないどころか、なんだか「お前には分からないだろう」と見下されたような気持ちになる。

 

この前、夜の新宿を歩いていたら、大学生くらいの飲み会帰りとおぼしき集団が歩いてきた。そのうちの1人の女性が、周りの目などお構いなしの大声で、隣を歩いている人に話しかけている。

 

「ねぇ、あなたの地元って温泉出てるの? うちの地元は温泉出てるんだ。ねぇ、あなたのところはどう? 温泉とか、出てる? うちは出てるよ、温泉。温泉出てるとこで育ったんだ。で、出てるの? 温泉は? あなたの地元は、温泉、出てるの? うちは温泉出てるんだけど、あなたのとこは、どう? 温泉は?」

 

温泉…

 

その女性は「温泉が出てる地域出身自慢」を繰り広げ、俺の前を通り過ぎていった。

 

地元の価値基準の一つに「温泉が出ているか?」ということがあるだなんて。気づかなかった。確かに温泉地って、ひとつのバロメーターかもしれない。

 

そうか、温泉があるというのは、それだけで地元の人たちの誇りとなるのか。しかし、こんなに地元で温泉が出てることを自慢する人は初めてみた。

 

そういえば、本場の博多育ちの人が東京の豚骨ラーメンを食べるとマズイと感じるらしい。地元店との味の乖離が酷くて「こんなのを『本場の味』だなんて名乗るんじゃねぇ!」と憤るようだ。

 

それならば、温泉地で生まれ育った彼女が、もしもお台場の大江戸温泉物語なんかに入ったら

 

「なにこれ、これが温泉ですって? 私の地元の温泉に比べたら、こんなの入浴剤入れたお湯みたいなものよ! こんなのを温泉だとありがたがる東京の人たちは可哀想だわ!」

 

と憤るに違いない。

 

都内の温泉をありがたがる人たちを嘲笑う人たち。俺の地方出身者への憧れが、益々、止まらない。

 

都会に憧れる生活に、憧れる。

【読書感想文】姫野桂『発達障害グレーゾーン』

 

発達障害グレーゾーン (扶桑社新書)

発達障害グレーゾーン (扶桑社新書)

 

 

片付けができない、遅刻や忘れ物が多い、雑談ができない、時間通りにタスクが終わらない…など、生きづらさを感じる人がいる。それまではずっと、怠けだとか努力不足かと思われてきたのだけど、もしかしてそれは発達障害かもしれないよ?


ただし、自分は発達障害だと考えて、病院で検査を受けるも、発達障害でないと言われたり、「その傾向がある」と曖昧な言い方をされた人もいる。そんなクロでもシロ(定型発達)でもない、グレーゾーンな人(グレさん)たちがこの本の主軸である。


発達障害は知的障害や身体障害のように、容易に分かるものでもない。ここからが発達障害、という明確な定義はないので、その傾向が大きい人もいれば小さい人もいるというグラテーションになる。だから、医師によって診断結果はまちまちである。


自分がダメなのは発達障害だからかもしれない。そう思って病院で検査を受けたものの、「その傾向がある」程度の曖昧な結果で終わってしまう。発達障害の診断がもらえない。自分は発達障害ではない。発達障害でないならば、ダメな自分はただの怠慢で努力が足りないだけだと落ち込んだり、自分を追い込んだりしてしまう。


本書では、グレーゾーン限定の人が集う「ぐれ会!」の様子の他、インタビューとしてグレ会の主催者、精神科医発達障害の人を支援する団体の人などが掲載されている。また、箸休め的にグレーゾーン当事者の話なども載っている。


そんな中で印象的だったのが、発達障害をカミングアウトした後の話だ。自分が発達障害であることを職場の上司に告白するのはいい。しかし、そのあとで、自分が会社にどうしてもらいたいのか話す必要がある。分かって欲しいで終わってしまっては、ただの独りよがりの告白だ。


この本では発達障害のこと、グレーゾーンの人たちのこと、発達障害の診断や支援のことなどを理解することができる。


俺も「発達障害かも?」と考えているグレさんである。この本に登場する人たちのこれまでの人生が書かれていて、大いに共感した。そして、自分だけじゃないんだと安心できた。


ただし、それで終わってはいけなくて、どうやって自分の苦手なことと向き合っていくのかを考える必要がある。


この本から、グレーゾーンの人たちがどうやって社会で生きていっているのかをことができた。


ただ、欲を言えば、どうやって足りない部分を補ったらいいのかをもう少し書いて欲しかった。それは著者の次回作、ということで…?

 

 

発達障害グレーゾーン (扶桑社新書)

発達障害グレーゾーン (扶桑社新書)

 

 

 

「愛国心」という違和感

この前、あるつけ麺屋にいったら、こんな経営理念が飾られてた。

 

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この文言に、なんか違和感を覚えた。

 

「祖国日本の豊かな社会を創る為」

 

っていう部分。

 

「祖国」っていう言葉、必要か?

 

これ、普通に「日本の豊かな社会を創る為」みたいにはできなかったのだろうか。何故、わざわざ「祖国」をつける必要が…???

 

「いや、祖国というのは『自分たちの国』っていう意味で使われているんだから、別に何もおかしいことではない」

 

と言われたら、それまでなのだが。

 

それと同じで「愛国心」という言葉にも良いイメージをもたない。国を愛する気持ち、なのだから何ら悪い意味の言葉ではない。

 

しかし、

 

「私は愛国心があります」

 

と言う人がいたら、なんとなく距離を置きたくなる。

 

そういえば、RAD WIMPSの新曲の『HINOMARU』が物議を醸した。歌詞の中に「御国」とか「御霊」などの言葉が入っていたり、軍歌を思わせるような文体だったりが「戦前の軍国主義の日本を賛美している」というのだ。

 

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よく歌詞を読むと、どこにも「軍国主義の賛美」を想起させる部分なんて見当たらない。曲調も軍歌のように勇ましいものでもなく、しっとりとしたメロディだ。

 

もっと前にはゆずの『ガイコクジンノトモダチ』が叩かれていた。

 

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「日本では愛国心を表現すると叩かれる。祖国を愛する気持ちを表して何が悪いというのだ」

 

とネット界隈の人たちは嘆く。言いたいことは分かる。自分たちの国を愛する気持ちをもつことは悪いことではない。悪いことではないけど「なんとなく違和感」がくっついてしまう。

 

愛国心で思い出すのが教育基本法の改正の話。教育に関する基本的な法律である教育基本法が改正される時、次の文言が物議を醸した。

 

伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

 

この改正案に対して

 

愛国心を教育するということを法律で決めていいのか? 国を愛する愛さないは個人の自由ではないか?」

 

という疑問の声が上がった。

 

「いや、自分たちの国を愛するように教育していくのは当然でしょ? 伝統や文化、歴史をしっかり教えないと、次の世代に自分たちの国を任せられないでしょ」

 

と思ったのだけど、確かに反対する立場の人の目線で考えてみたら、これもまた「愛国心」という違和感なのかもしれない。

 

国を愛することに右も左もない。

 

でも、愛国心に対して、意味もなく訝しくなり、こみ上げるこの気持ちは、なに?

頭の中がガチャガチャしている

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何故だろう。

 

頭の中がガチャガチャしている。

 

頭の中がとっ散らかっていて、ちゃんと物事を考えることができない。

 

最近、何か生活の変化はあったのか考える。

 

ここ最近、していることは…

 

ブログを毎日更新していることか。

 

毎朝、通勤の満員電車でこのブログを書いている。

 

そしてこの記事で20日間連続の投稿だ。ここまで続いたのは新記録かもしれない。頑張っているな、俺。偉いぞ、俺。エロいぞ、俺。

 

Twitterに毎日投稿するならば、ブログ記事の1本くらい毎日投稿できるだろが!」

 

ってことで、20日間記事を更新しているのだが、アウトプットばかりでインプットが無くなっていること気づく。

 

そして、年の始めに立てた目標を見返してみる。

 

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年間400冊の本を読む、と書かれている。

 

いや、無理だろ?

 

どういう計算で400冊にした?

 

年間400冊、月に34冊読む計算である。

 

え、本当にどういう計算をした?

 

もはや正月の自分が何をしたかったのかが分からないくらい、頭がガチャガチャしている。

 

とにかく「インプットをするぜ!」と考えていることは分かった。

 

このブログを更新するのに1時間弱かかる。その倍くらい、インプットに費やしていこう。

 

インプットとアウトプットのバランスが大切。

 

インプットとして読書の時間をもっと増やせば、頭のガチャガチャが少し落ち着くのだろうか…?