ジーコとケンジの欲望の記録

雨ニモマケテ、風ニモマケテ、慾マミレ、サウイウヒトガ、コノワタシダ

継ぎ足されてきた何か…

犯罪ではないけど、これをやったら犯罪者のような扱いを受けるようなことがある。

 

何ヶ月もかけてみんなで作ったドミノを発表日前日に崩してしまうとか、サプライズのケーキをサプライズ直前で潰してしまうとか、けん玉ギネス記録への挑戦を自分のミスで台無しにしてしまうとか。

 

そんな罪名なき犯罪の中で、なかなか重たい罪じゃないかと思うのが

 

「創業以来、何十年も継ぎ足されてきたタレを、ひっくり返す」

 

ということ。

 

これはなかなか重罪だと思う。先代から代々受け継がれてきたであろう伝統のタレを、一瞬にして下水に流してしまう。

 

もし俺が、継ぎ足しのタレを使った老舗で働いたら、絶対にその失敗をする自信がある。そして、激しく叱責される自信がある。

 

「てめぇ、何てことしてくれたんだ!! これはな、50年という長い間継ぎ足されてきた伝統のタレなんだよ。

 

両親がてめぇの種仕込んでる時も、てめぇがママのおっぱいをチューチューしてる時も、てめぇが鼻水垂らして『うんこちんこ』で笑ってる時も、てめぇが女のこと考えて毎晩部屋で精子飛ばしてる時も、てめぇがサルみてぇに女とパコパコしてる時も、ずっとずっとずっと、このタレは継ぎ足されてきたんだよ。

 

その伝統を、てめぇは今、途切れさせやがった。選べ、てめぇの人生みたいに薄っぺらく下ろされるか、永遠に水を継ぎ足されて二度と陸の空気を吸えないようになるか、選びやがれ!!!!」

 

と包丁の切っ先を喉元に向けられ、怒鳴られるんだろな。怖い。

 

だけど、俺はこの「継ぎ足しのタレ」について、ずっと疑問に思っていた。創業50年の継ぎ足しのタレの中には「50年物」は存在しないのではないだろうか。タレを継ぎ足したら、その時点でタレの新旧が混ざる。例えば、コップ1杯のタレを汲んできて、その成分を調べたら、50年前のタレ成分は何%含まれているのだろうか。

 

俺はいつもテレビで「創業以来継ぎ足されてきた伝統のタレ」みたいなのが紹介される度に「それって本当に凄いの?」と訝しんでいた。

 

というか、もし本当に50年前のタレが存在していたら、逆に気持ち悪い。50年もいて腐らないのだろうか。ワインみたいに熟成するということか? いや、ワインだってコルクを開けたら痛み出すだろう。

 

そう思っていたら、先日、何かのテレビ番組で、この継ぎ足しのタレについて取り上げられていた。

 

「継ぎ足しのタレはどうして腐らないの?」

 

という疑問を検証するコーナーだった。継ぎ足しのタレを使っている店の人にインタビューしても、首を傾げている。

 

「糖分や塩分が多いからじゃないですか?」

 

「熟成してるからじゃないですか?」

 

「食材に含まれる酵素的なのがいい感じに殺菌してくれてるからじゃないですか?」

 

継ぎ足しのタレを使っているけど、みんな分からない。

 

ボーッと生きてんじゃねぇよ!!

 

老舗のご主人がお茶の間に醜態を散々晒されて、正解が発表される。

 

「継ぎ足しのタレは、1ヶ月と経たないうちに中身が全て入れ替わってしまうから!」

 

えっ!?って思った。

 

インタビューを受けた店の人たちも正解を知って「えっ!?」って言っていた。

 

そして検証実験が始まった。赤色と青色の2色の水を用意する。赤色の水が入った水槽からコップ一杯分すくって捨てる。そこへ、捨てた分の量の青い水を足す。よくかき混ぜてから、再び水槽からコップ一杯分の水を捨て、そこへコップ一杯分の青色の水入れる。

 

それを何度か繰り返す。最初は赤と青が混ざって紫色になっていたのだが、20回を超えた辺りから水槽の水が継ぎ足された青色になっていく。やがて、水槽の水は完全な青色になった。

 

継ぎ足しのタレはそんな仰々しいものではなかったのだ。だから、例え50年継ぎ足されたタレをひっくり返そうとも、そのうちの最も古い成分はたかだか1ヶ月程前のものなのだ。1ヶ月前のものをひっくり返されたのだから、全く騒ぐほどのことではない。

 

「創業時のタレをタイムマシン乗って取ってくるか、いますぐ死ぬか、選べ!」

 

と無茶な要求をされても、涼しい顔をしていたらいい。

 

「お言葉を返すようですが、私が溢したタレのうち、最も古い部分はせいぜい1ヶ月程前のものですよ? 50年前に仕込んだタレなんか、とっくに無くなってますよ?

 

まぁ、1ヶ月前だろうが過去に戻ることはできません。しかし、この先の1ヶ月なんてあっという間に過ぎていきます。

 

たかだか1ヶ月の為に、あなたは私を殺して犯罪者になるおつもりですか? 1ヶ月前のタレを台無しにされたくらいで、あなたのこれからの何十年の人生を台無しにしてもいいのでしょうか?」

 

相手は言葉に詰まった。向けられた刃は、力を失って俺の喉元から離れていく。そして彼は顔を伏せ、大きな呼吸を一つすると、再び俺の顔と向き合った。

 

そこには、何かから解放されたような、スッキリとした顔があった。

 

「確かにそうかもしれないな…

 

実は俺も薄々気づいていた。このタレの中に、50年前のものが混ざっているなんてことはないと。

 

そして俺は最近考えるようになった。何が楽しくて毎日『伝統』と向き合っているのだろうかと。

 

てめぇの言葉を受けて、俺は分かったよ。伝統に生かされていることも大事かもしれない。でも、今を生きることも大事なのだと。

 

ありがとう、てめぇが継ぎ足しのタレを溢してくれたことで、俺は大事なことに気づけたよ。いや、本当はずっと前から気づいていたのかもしれない。気づかないようにしていただけなのかもしれないな。

 

本当に…ありがとう」

 

お互い、目から涙をこぼしていた。床を流れるタレに2人の涙が混ざり合う。今までずっと狭いタレ壺の中にいたタレたちは、広くて自由なこの風景を、そして俺たちをどんな気持ちで見ているのだろうか。涙が止まらない…

 

相手は俺をギュッと抱きしめた。先ほどの剣幕が想像できないくらい優しい抱擁だった。この道何十年という歳月を、彼はこのタレと共に過ごしてきたのだ。彼の無骨な腕に抱かれ、不器用ながらも真っ直ぐな「漢」の姿を、俺は全身で感じていた。

 

すると俺の背中で、何かがプツリと弾けた。その場所から、何か熱いものが滲み出てくる。全身から冷たい汗が流れていく。

 

何が起こったのか把握しきれない。奴は俺の耳元に口を近づけ、囁いた。

 

「でも、それはそれ、これはこれだ。タレにかけた俺の人生、てめぇの命で償え…」

 

50年もの間継ぎ足されてきた暗黒色のタレと、俺の体内で何十年も継ぎ足されてきた暗赤色のタレが混ざる。

 

そういえば、暗赤色の方のタレは120日間で全てが入れ替わると聞いたことがある。

 

俺の方が凄い…継ぎ足しのタレなんかより…継ぎ足しの俺の…俺の…

いなか、の、じまん

f:id:takatoshi0905:20190131080003p:image

 

生まれも育ちも東京寄りの埼玉の俺。

 

中学で池袋で遊ぶことを覚えたし、高校は都内だったし、大学は新宿駅が乗り換え駅だった。

 

物心ついた頃には東京でうぇいうぇいしていたから、東京への憧れを抱くことはなかった。だから、地方の人が抱くであろう東京への憧れみたいなものに、憧れをもっていたりする。東京へ行って「都会はもんげーところずらぁ…」とか圧倒されるような経験をしてみたかった。

 

方言とか喋りたかった。標準語と地方語のバイリンガルじゃん。

 

断っておくが、地方の人をバカにしているワケではない。

 

だから、地方出身の人たちが繰り広げる、地元のあるあるトークをされるとついていけない。そして、地域は違えども、何か通じ合っているのを見るのが悔しい。

 

「ジャンプは火曜日発売だと思ってたよね」

 

「東京に来てテレビのチャンネルの多さに驚いた」

 

「自宅に鍵をかけたことがない」

 

「ほとんどのコンビニに駐車場が無いか、あっても小さすぎてビックリした」

 

「都会の人、歩くの速過ぎでワロタwww」

 

と盛り上がっているとそこに入れないどころか、なんだか「お前には分からないだろう」と見下されたような気持ちになる。

 

この前、夜の新宿を歩いていたら、大学生くらいの飲み会帰りとおぼしき集団が歩いてきた。そのうちの1人の女性が、周りの目などお構いなしの大声で、隣を歩いている人に話しかけている。

 

「ねぇ、あなたの地元って温泉出てるの? うちの地元は温泉出てるんだ。ねぇ、あなたのところはどう? 温泉とか、出てる? うちは出てるよ、温泉。温泉出てるとこで育ったんだ。で、出てるの? 温泉は? あなたの地元は、温泉、出てるの? うちは温泉出てるんだけど、あなたのとこは、どう? 温泉は?」

 

温泉…

 

その女性は「温泉が出てる地域出身自慢」を繰り広げ、俺の前を通り過ぎていった。

 

地元の価値基準の一つに「温泉が出ているか?」ということがあるだなんて。気づかなかった。確かに温泉地って、ひとつのバロメーターかもしれない。

 

そうか、温泉があるというのは、それだけで地元の人たちの誇りとなるのか。しかし、こんなに地元で温泉が出てることを自慢する人は初めてみた。

 

そういえば、本場の博多育ちの人が東京の豚骨ラーメンを食べるとマズイと感じるらしい。地元店との味の乖離が酷くて「こんなのを『本場の味』だなんて名乗るんじゃねぇ!」と憤るようだ。

 

それならば、温泉地で生まれ育った彼女が、もしもお台場の大江戸温泉物語なんかに入ったら

 

「なにこれ、これが温泉ですって? 私の地元の温泉に比べたら、こんなの入浴剤入れたお湯みたいなものよ! こんなのを温泉だとありがたがる東京の人たちは可哀想だわ!」

 

と憤るに違いない。

 

都内の温泉をありがたがる人たちを嘲笑う人たち。俺の地方出身者への憧れが、益々、止まらない。

 

都会に憧れる生活に、憧れる。

【読書感想文】姫野桂『発達障害グレーゾーン』

 

発達障害グレーゾーン (扶桑社新書)

発達障害グレーゾーン (扶桑社新書)

 

 

片付けができない、遅刻や忘れ物が多い、雑談ができない、時間通りにタスクが終わらない…など、生きづらさを感じる人がいる。それまではずっと、怠けだとか努力不足かと思われてきたのだけど、もしかしてそれは発達障害かもしれないよ?


ただし、自分は発達障害だと考えて、病院で検査を受けるも、発達障害でないと言われたり、「その傾向がある」と曖昧な言い方をされた人もいる。そんなクロでもシロ(定型発達)でもない、グレーゾーンな人(グレさん)たちがこの本の主軸である。


発達障害は知的障害や身体障害のように、容易に分かるものでもない。ここからが発達障害、という明確な定義はないので、その傾向が大きい人もいれば小さい人もいるというグラテーションになる。だから、医師によって診断結果はまちまちである。


自分がダメなのは発達障害だからかもしれない。そう思って病院で検査を受けたものの、「その傾向がある」程度の曖昧な結果で終わってしまう。発達障害の診断がもらえない。自分は発達障害ではない。発達障害でないならば、ダメな自分はただの怠慢で努力が足りないだけだと落ち込んだり、自分を追い込んだりしてしまう。


本書では、グレーゾーン限定の人が集う「ぐれ会!」の様子の他、インタビューとしてグレ会の主催者、精神科医発達障害の人を支援する団体の人などが掲載されている。また、箸休め的にグレーゾーン当事者の話なども載っている。


そんな中で印象的だったのが、発達障害をカミングアウトした後の話だ。自分が発達障害であることを職場の上司に告白するのはいい。しかし、そのあとで、自分が会社にどうしてもらいたいのか話す必要がある。分かって欲しいで終わってしまっては、ただの独りよがりの告白だ。


この本では発達障害のこと、グレーゾーンの人たちのこと、発達障害の診断や支援のことなどを理解することができる。


俺も「発達障害かも?」と考えているグレさんである。この本に登場する人たちのこれまでの人生が書かれていて、大いに共感した。そして、自分だけじゃないんだと安心できた。


ただし、それで終わってはいけなくて、どうやって自分の苦手なことと向き合っていくのかを考える必要がある。


この本から、グレーゾーンの人たちがどうやって社会で生きていっているのかをことができた。


ただ、欲を言えば、どうやって足りない部分を補ったらいいのかをもう少し書いて欲しかった。それは著者の次回作、ということで…?

 

 

発達障害グレーゾーン (扶桑社新書)

発達障害グレーゾーン (扶桑社新書)

 

 

 

「愛国心」という違和感

この前、あるつけ麺屋にいったら、こんな経営理念が飾られてた。

 

f:id:takatoshi0905:20180716193452p:image

 

この文言に、なんか違和感を覚えた。

 

「祖国日本の豊かな社会を創る為」

 

っていう部分。

 

「祖国」っていう言葉、必要か?

 

これ、普通に「日本の豊かな社会を創る為」みたいにはできなかったのだろうか。何故、わざわざ「祖国」をつける必要が…???

 

「いや、祖国というのは『自分たちの国』っていう意味で使われているんだから、別に何もおかしいことではない」

 

と言われたら、それまでなのだが。

 

それと同じで「愛国心」という言葉にも良いイメージをもたない。国を愛する気持ち、なのだから何ら悪い意味の言葉ではない。

 

しかし、

 

「私は愛国心があります」

 

と言う人がいたら、なんとなく距離を置きたくなる。

 

そういえば、RAD WIMPSの新曲の『HINOMARU』が物議を醸した。歌詞の中に「御国」とか「御霊」などの言葉が入っていたり、軍歌を思わせるような文体だったりが「戦前の軍国主義の日本を賛美している」というのだ。

 

f:id:takatoshi0905:20180716203553p:image

 

よく歌詞を読むと、どこにも「軍国主義の賛美」を想起させる部分なんて見当たらない。曲調も軍歌のように勇ましいものでもなく、しっとりとしたメロディだ。

 

もっと前にはゆずの『ガイコクジンノトモダチ』が叩かれていた。

 

f:id:takatoshi0905:20180716205503p:image

 

「日本では愛国心を表現すると叩かれる。祖国を愛する気持ちを表して何が悪いというのだ」

 

とネット界隈の人たちは嘆く。言いたいことは分かる。自分たちの国を愛する気持ちをもつことは悪いことではない。悪いことではないけど「なんとなく違和感」がくっついてしまう。

 

愛国心で思い出すのが教育基本法の改正の話。教育に関する基本的な法律である教育基本法が改正される時、次の文言が物議を醸した。

 

伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

 

この改正案に対して

 

愛国心を教育するということを法律で決めていいのか? 国を愛する愛さないは個人の自由ではないか?」

 

という疑問の声が上がった。

 

「いや、自分たちの国を愛するように教育していくのは当然でしょ? 伝統や文化、歴史をしっかり教えないと、次の世代に自分たちの国を任せられないでしょ」

 

と思ったのだけど、確かに反対する立場の人の目線で考えてみたら、これもまた「愛国心」という違和感なのかもしれない。

 

国を愛することに右も左もない。

 

でも、愛国心に対して、意味もなく訝しくなり、こみ上げるこの気持ちは、なに?

頭の中がガチャガチャしている

f:id:takatoshi0905:20190127232735p:image

 

何故だろう。

 

頭の中がガチャガチャしている。

 

頭の中がとっ散らかっていて、ちゃんと物事を考えることができない。

 

最近、何か生活の変化はあったのか考える。

 

ここ最近、していることは…

 

ブログを毎日更新していることか。

 

毎朝、通勤の満員電車でこのブログを書いている。

 

そしてこの記事で20日間連続の投稿だ。ここまで続いたのは新記録かもしれない。頑張っているな、俺。偉いぞ、俺。エロいぞ、俺。

 

Twitterに毎日投稿するならば、ブログ記事の1本くらい毎日投稿できるだろが!」

 

ってことで、20日間記事を更新しているのだが、アウトプットばかりでインプットが無くなっていること気づく。

 

そして、年の始めに立てた目標を見返してみる。

 

f:id:takatoshi0905:20190127232013j:image

 

年間400冊の本を読む、と書かれている。

 

いや、無理だろ?

 

どういう計算で400冊にした?

 

年間400冊、月に34冊読む計算である。

 

え、本当にどういう計算をした?

 

もはや正月の自分が何をしたかったのかが分からないくらい、頭がガチャガチャしている。

 

とにかく「インプットをするぜ!」と考えていることは分かった。

 

このブログを更新するのに1時間弱かかる。その倍くらい、インプットに費やしていこう。

 

インプットとアウトプットのバランスが大切。

 

インプットとして読書の時間をもっと増やせば、頭のガチャガチャが少し落ち着くのだろうか…?

 

カウンセリングで心が晴れなかった俺が次にしたこととは…

おとといの記事で、カウンセリングに行ったものの心が晴れなかった話をした。カウンセリング技術に意識がいったり、「俺の話を仕事で聞いてもらっても嬉しくない」と捻くれた心が顔を出したりしてしまい、効果がなかった。

 

断っておくが、別にカウンセリングを否定しているわけではない。個人の感想であり、個人差があります。俺はカウンセリングは合わなかった、という話であることは理解していただきたい。

 

さて、カウンセリングで心が癒えなかった俺は、ある休日、サブカルの聖地の中野ブロードウェイを歩いていた。

 

中野ブロードウェイをウロウロしていると、あるものに目を奪われた。

 

占いである。

 

中野ブロードウェイは漫画やホビーの店だけでなく、占いの店もそこそこに存在感を示している。

 

「占いか…」

 

スピリチュアルなものに身を任せてみるのもいいかもしれない。占いは宗教ではないから、行ったところで変な勧誘をされる訳ではないし、壺を売られたりするわけではない。

 

そんなことを考えて店先の手相の解説なんかを眺めていたら、店から1人の占い師が現れた。

 

「もしよかったら、いかがですか?」

 

服装が少し派手な50代くらいの女性。ひょっこりはんして俺に手招きをする。

 

これも何かの縁かもしれない。声をかけられたということは、神的な存在が俺に占いが必要だと呼びかけている。行くしかない。

 

俺は、占いの館へと入っていった。

 

「じゃあ、ここにあなたの名前や生年月日を書いてね。あと、どんなことを占って欲しいのかもね」

 

書類を渡されて必要事項を記入する。しかし「何を占って欲しいか」で手が止まる。俺は顔を上げ、占い項目が定まってないことを告げた。

 

「何かを占って欲しい訳じゃないんです。ただ、ここ最近、自分に自信が無くて。今、教師やってるんですけど、全然うまくいかなくて、もしかしたら、俺はこの仕事じゃなくて他に適したものがあるんじゃないかと思って…」

 

「あら、そうなのね。じゃあ、あなたの性格を調べてみて、あなたが教師に向いているかどうかを占ってみましょうかね」

 

「はい、お願いします」

 

すると占い師は俺の生年月日、名前の画数などを使って何かを計算し始め、辞典のようなものをパラパラとめくり、魔法陣みたいなのを慣れた手つきで作り出した。そして「うん、なるほどね…」と何かを納得したように頷いた。あれか、これから「こんなん出ましたけど」とかやるやつか。

 

「あなたは、よく言えば信念を曲げない強い意志を持っているけど、悪く言えば融通が利かない頑固な人。上の人だろうとなんだろうと、自分が違うと思ったら意見する。上に立てば周りを引っ張っていく良きリーダーになるわ。自分が常に主人公でありたいという気持ちが強い。そんな性格ね。

 

あと、色んなことができるオールマイティというよりは、1つの専門や技術を極めていく職人タイプね。好きなことに対しては貪欲に技術や知識を求めるし、またそれをお金にする力をもっているわ。

 

上の人にも臆せず信念で行動し、専門性に特化したタイプ。まさに教師という仕事は、あなたにピッタリだと思うわ」

 

びっくりした。

 

大当たりである。

 

その占い師とは占いの項目の相談以外、話をしていない。俺の今までのこととか辛かったこととか、一切話をしていない。それなのに、なぜ、当ててしまうのか。

 

「あなたは小泉純一郎石原慎太郎と同じタイプの人。あの2人も周りが何といっても信念を曲げないし、強いリーダーシップをもっている。だけど頑固だし、あんなのが部下だったら、上司はかなり扱いづらいわね。

 

こういう人たちは、信念や専門性で行動して成功するか、逆に頑固さが仇となって孤立するかの両極端。だからホームレスにもこのタイプが多いのよ」

 

凄い凄い、これは凄いぞ。

 

なんでそんなことまで分かってしまうのか。

 

当たり過ぎて、話している内容が自分の中にどんどん落ちてくる。自分の全てを把握してもらえている気持ちになり、嬉しくて頬が緩んでいるのを感じた。

 

「でも、自分は生徒や保護者とうまくコミュニケーション取るのが出来てないんです。会話もうまくいかなくて、生徒が改善してくれなかったり、生徒を傷つけてしまったり、保護者からも色々と言われてしまったりして…」

 

「そうなのね。じゃあ、こう考えたらどうかしら? あなたは職人肌だから、技術を高めることには惜しみない努力ができる人。だから、生徒や保護者との会話を『技術』として考えるの。コミュニケーションは技術。そしたら、それをどうやったら高められるのか、できそうじゃない?」

 

なるほど。その方法があったか。コミュニケーションを技術と捉えて高めていく。考えもしなかった。俺はずっと人間とコミュニケーションできない劣った奴だと思っていたけれど、それは技術が足りなかっただけか。職人肌の俺はその技術を高めていったらいいのか。

 

そのあと、手相も見てもらった。手相は左手と右手で見るものが違うのだという。右手は今まで築いてきた自分、左手は生まれつきの自分。

 

そこで左手を見てもらうことにした。

 

「あなた、慈愛の心をもってるわね。人を慈しむ優しい人です。しかし、あなたのもっている『自分が主人公でありたい』という気持ちとぶつかって苦しむかもしれないわ」

 

心の中のモヤが晴れた。

 

科学に裏付けされたカウンセリングよりも、生年月日と姓名と手の平の形だけで断定する占いによって、俺の心の黒いものが取り除かれたのだ。

 

ちなみに今回の占いの料金は、1時間見てもらって1万円だった。カウンセリング3回分。これを高いと思うか適正と思うか。

 

俺は適正だと思った。

 

人生に悩んだら占いに行く。これも1つの提案である。

日本語とはなんと奥ゆかしき言語であるか

f:id:takatoshi0905:20190126010310p:image

 

日本語には尊敬語と謙譲語がある。

 

尊敬語は相手を敬い、立てる時に使う言葉。

 

謙譲語は自分を低くすることで、相手を立てる時に使う言葉。

 

どちらも相手を立てるというOMOTENASHIを含んだ言語だといえる。こんな奥ゆかしい言語が日本語以外にある?

 

そもそも「奥ゆかしい」という概念さえも日本特有のものかもしれない。

 

尊敬語と謙譲語は「いらっしゃる」と「伺う」のような動詞以外にも、「御社」と「弊社」のような名詞もある。

 

相手の妻を「奥様」といい、自分の妻を「家内」と言ったりする。

 

相手の息子は「ご子息」で、相手の娘は「ご令嬢」だ。

 

そして自分の息子は「愚息」で、娘は「愚娘」という。なるほど、相手を立てる為に自分だけでなく、自分の子供さえも低くさせる。

 

奥ゆかしき日本語。

 

他にも謙譲語はないか調べてみる。

 

f:id:takatoshi0905:20190126090028j:image

 

豚児…

 

豚の子…

 

相手「そちらはあなたのご子息でいらっしゃいますか?」

 

自分「はい、これは私の豚児です」

 

相手「とても賢そうなご子息ですね」

 

自分「いえいえ、豚児です。もう、豚みたいな子供です。寝て食って毎日を生きてるような豚です」

 

相手「でも、聞くところによると一流大学に在学だとか。賢いご子息ですね」

 

自分「いえいえ、豚児です。大学には入れましたけど、毎日勉強なんかしないで、毎晩酒を飲み、女の子とセックスばっかりしてます。もう、豚みたいな大学生活を送ってます。ほら豚児よ、挨拶をしなさい」

 

子供「はじめまして、豚児です。ぶひー」

 

そういうことか。

 

もう一つ。

 

f:id:takatoshi0905:20190126090055j:image

 

豚犬…

 

もはや子供ですらない。

 

相手「こちらはご子息でいらっしゃいますか?」

 

自分「えぇ、これは私の豚犬です。ほら豚犬、挨拶をしなさい」

 

子供「わんわん、ぶひー!!」

 

日本語とはなんと奥ゆかしき言語であるか。