ジーコとケンジの欲望の記録

雨ニモマケテ、風ニモマケテ、慾マミレ、サウイウヒトガ、コノワタシダ

カウンセリングで心が晴れなかった俺が次にしたこととは…

おとといの記事で、カウンセリングに行ったものの心が晴れなかった話をした。カウンセリング技術に意識がいったり、「俺の話を仕事で聞いてもらっても嬉しくない」と捻くれた心が顔を出したりしてしまい、効果がなかった。

 

断っておくが、別にカウンセリングを否定しているわけではない。個人の感想であり、個人差があります。俺はカウンセリングは合わなかった、という話であることは理解していただきたい。

 

さて、カウンセリングで心が癒えなかった俺は、ある休日、サブカルの聖地の中野ブロードウェイを歩いていた。

 

中野ブロードウェイをウロウロしていると、あるものに目を奪われた。

 

占いである。

 

中野ブロードウェイは漫画やホビーの店だけでなく、占いの店もそこそこに存在感を示している。

 

「占いか…」

 

スピリチュアルなものに身を任せてみるのもいいかもしれない。占いは宗教ではないから、行ったところで変な勧誘をされる訳ではないし、壺を売られたりするわけではない。

 

そんなことを考えて店先の手相の解説なんかを眺めていたら、店から1人の占い師が現れた。

 

「もしよかったら、いかがですか?」

 

服装が少し派手な50代くらいの女性。ひょっこりはんして俺に手招きをする。

 

これも何かの縁かもしれない。声をかけられたということは、神的な存在が俺に占いが必要だと呼びかけている。行くしかない。

 

俺は、占いの館へと入っていった。

 

「じゃあ、ここにあなたの名前や生年月日を書いてね。あと、どんなことを占って欲しいのかもね」

 

書類を渡されて必要事項を記入する。しかし「何を占って欲しいか」で手が止まる。俺は顔を上げ、占い項目が定まってないことを告げた。

 

「何かを占って欲しい訳じゃないんです。ただ、ここ最近、自分に自信が無くて。今、教師やってるんですけど、全然うまくいかなくて、もしかしたら、俺はこの仕事じゃなくて他に適したものがあるんじゃないかと思って…」

 

「あら、そうなのね。じゃあ、あなたの性格を調べてみて、あなたが教師に向いているかどうかを占ってみましょうかね」

 

「はい、お願いします」

 

すると占い師は俺の生年月日、名前の画数などを使って何かを計算し始め、辞典のようなものをパラパラとめくり、魔法陣みたいなのを慣れた手つきで作り出した。そして「うん、なるほどね…」と何かを納得したように頷いた。あれか、これから「こんなん出ましたけど」とかやるやつか。

 

「あなたは、よく言えば信念を曲げない強い意志を持っているけど、悪く言えば融通が利かない頑固な人。上の人だろうとなんだろうと、自分が違うと思ったら意見する。上に立てば周りを引っ張っていく良きリーダーになるわ。自分が常に主人公でありたいという気持ちが強い。そんな性格ね。

 

あと、色んなことができるオールマイティというよりは、1つの専門や技術を極めていく職人タイプね。好きなことに対しては貪欲に技術や知識を求めるし、またそれをお金にする力をもっているわ。

 

上の人にも臆せず信念で行動し、専門性に特化したタイプ。まさに教師という仕事は、あなたにピッタリだと思うわ」

 

びっくりした。

 

大当たりである。

 

その占い師とは占いの項目の相談以外、話をしていない。俺の今までのこととか辛かったこととか、一切話をしていない。それなのに、なぜ、当ててしまうのか。

 

「あなたは小泉純一郎石原慎太郎と同じタイプの人。あの2人も周りが何といっても信念を曲げないし、強いリーダーシップをもっている。だけど頑固だし、あんなのが部下だったら、上司はかなり扱いづらいわね。

 

こういう人たちは、信念や専門性で行動して成功するか、逆に頑固さが仇となって孤立するかの両極端。だからホームレスにもこのタイプが多いのよ」

 

凄い凄い、これは凄いぞ。

 

なんでそんなことまで分かってしまうのか。

 

当たり過ぎて、話している内容が自分の中にどんどん落ちてくる。自分の全てを把握してもらえている気持ちになり、嬉しくて頬が緩んでいるのを感じた。

 

「でも、自分は生徒や保護者とうまくコミュニケーション取るのが出来てないんです。会話もうまくいかなくて、生徒が改善してくれなかったり、生徒を傷つけてしまったり、保護者からも色々と言われてしまったりして…」

 

「そうなのね。じゃあ、こう考えたらどうかしら? あなたは職人肌だから、技術を高めることには惜しみない努力ができる人。だから、生徒や保護者との会話を『技術』として考えるの。コミュニケーションは技術。そしたら、それをどうやったら高められるのか、できそうじゃない?」

 

なるほど。その方法があったか。コミュニケーションを技術と捉えて高めていく。考えもしなかった。俺はずっと人間とコミュニケーションできない劣った奴だと思っていたけれど、それは技術が足りなかっただけか。職人肌の俺はその技術を高めていったらいいのか。

 

そのあと、手相も見てもらった。手相は左手と右手で見るものが違うのだという。右手は今まで築いてきた自分、左手は生まれつきの自分。

 

そこで左手を見てもらうことにした。

 

「あなた、慈愛の心をもってるわね。人を慈しむ優しい人です。しかし、あなたのもっている『自分が主人公でありたい』という気持ちとぶつかって苦しむかもしれないわ」

 

心の中のモヤが晴れた。

 

科学に裏付けされたカウンセリングよりも、生年月日と姓名と手の平の形だけで断定する占いによって、俺の心の黒いものが取り除かれたのだ。

 

ちなみに今回の占いの料金は、1時間見てもらって1万円だった。カウンセリング3回分。これを高いと思うか適正と思うか。

 

俺は適正だと思った。

 

人生に悩んだら占いに行く。これも1つの提案である。

日本語とはなんと奥ゆかしき言語であるか

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日本語には尊敬語と謙譲語がある。

 

尊敬語は相手を敬い、立てる時に使う言葉。

 

謙譲語は自分を低くすることで、相手を立てる時に使う言葉。

 

どちらも相手を立てるというOMOTENASHIを含んだ言語だといえる。こんな奥ゆかしい言語が日本語以外にある?

 

そもそも「奥ゆかしい」という概念さえも日本特有のものかもしれない。

 

尊敬語と謙譲語は「いらっしゃる」と「伺う」のような動詞以外にも、「御社」と「弊社」のような名詞もある。

 

相手の妻を「奥様」といい、自分の妻を「家内」と言ったりする。

 

相手の息子は「ご子息」で、相手の娘は「ご令嬢」だ。

 

そして自分の息子は「愚息」で、娘は「愚娘」という。なるほど、相手を立てる為に自分だけでなく、自分の子供さえも低くさせる。

 

奥ゆかしき日本語。

 

他にも謙譲語はないか調べてみる。

 

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豚児…

 

豚の子…

 

相手「そちらはあなたのご子息でいらっしゃいますか?」

 

自分「はい、これは私の豚児です」

 

相手「とても賢そうなご子息ですね」

 

自分「いえいえ、豚児です。もう、豚みたいな子供です。寝て食って毎日を生きてるような豚です」

 

相手「でも、聞くところによると一流大学に在学だとか。賢いご子息ですね」

 

自分「いえいえ、豚児です。大学には入れましたけど、毎日勉強なんかしないで、毎晩酒を飲み、女の子とセックスばっかりしてます。もう、豚みたいな大学生活を送ってます。ほら豚児よ、挨拶をしなさい」

 

子供「はじめまして、豚児です。ぶひー」

 

そういうことか。

 

もう一つ。

 

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豚犬…

 

もはや子供ですらない。

 

相手「こちらはご子息でいらっしゃいますか?」

 

自分「えぇ、これは私の豚犬です。ほら豚犬、挨拶をしなさい」

 

子供「わんわん、ぶひー!!」

 

日本語とはなんと奥ゆかしき言語であるか。

死を悟り、俺はカウンセリングを受けねばならぬと思った

「俺、このままだと心が死ぬ…」

 

ある朝、目を覚まして、そんなことを考えた。教員時代の話である。

 

職場が変わり、初めて担任というものに就き、やらなくてはならないことが山のように増えた。

 

だけど、なかなかやらねばならないタスクが片付かない。時間がどんどん過ぎていく。ギリギリになる。失敗する。叱られる。自己肯定感が削られる。自信を失う。目の前のことから逃げがちになる。タスクが積み重なる。崩れる。失敗する。叱られる。自己肯定感が削られる。自信を失う…(以下、エンドレス

 

死ぬ、と思った。この負のループから抜け出さなければならないと思った。しかし、自分で「これからはこうしよう」と決めても、決めたことがプレッシャーになるのかなんなのか、自分で決めたことさえを守れない。逃げだそうとする。

 

そこでカウンセリングというものを受けてみることにした。もう、プロにお金を払って、自分の苦しみを取り除いてもらうしかない。

 

カウンセリングというものは初めて受けるのだが、カウンセリングの方法については本を読んである程度は勉強はしていた。カウンセラーはクライアント(相談者)の悩みにアドバイスして解決するのではなく、クライアントの話に共感し、頭の中を整理してあげて、どうしたらいいのかをクライアントの中から引き出す手伝いをする。

 

だから俺も、自分が気づけてないことを引き出してもらいながら、この「ダメな自分、死ね!」状態から脱却したいと考えていた。

 

色々とカウンセリングをしてくれるところを探し、精神科が併設する渋谷の某メンタルクリニックに行くことにした。

 

受付で書類を渡される。書類に名前や生年月日、職業などの基本事項を記入していき、最後に「あなたが今、悩んでいることを教えてください」みたいな項目があったので、

 

「自己否定が止まらない」

 

という1行を書いた。自己否定で、胸が胸が苦しくなる。死にたい切なさは止まらない。

 

そして名前を呼ばれてカウンセリングルームへ。50代くらいの女性が笑顔で俺を迎えてくれた。

 

いきなり本題に入らず、天気のこととかそんな他愛のない話で、場を和ませてくれた。なんだか、近所のおばちゃんと話をしているような安心感を抱く。

 

「さて、それでは本題に入っていきましょうね。書類を見せてもらいますね…なるほど、『自己否定が止まらない』っていうことですけど詳しく教えてください」

 

自分の書いた1行を読み上げられ少し恥ずかしくなった。もっとちゃんと書いておくべきだったな。

 

それから俺は、今自分が何に悩んでいるのかを話した。やることが片付かない、やることから逃げてしまう、いつもギリギリになる、失敗する、叱られる、自己否定、さらに逃げる、失敗、叱責、自己否定、死にたみがやばたにえん、死にたみがやばたにえん、死にたみえん、生きるのがむりちゃづけ…

 

カウンセラーは丁寧に話を聞いてくれた。色々と質問をして引き出させてくれたし、「ギリギリになっても何とか形になるからそれがクセになってるのでは?」と自分では気づかなかった部分を掘り出してくれたりした。

 

しかし、カウンセリングを受けながら、俺はカウンセラーの質問や話す内容を頭の中で分析していた。「これが共感か」とか「これがリフレーミングか」とか「これがリフレインか」とかとか、そんな本で読んだカウンセリング技術のことばかりを考えてしまい、肝心の「悩みの解決」についての意識が置き去りにされていた。

 

「…ということで、そろそろ時間となりました。では、まとめましょうか」

 

時計を俺に向ける。そして俺は我に返った。

 

こうして俺の悩みを聴くのは、この人にとって仕事の1つでしかないんだな…

 

俺はこんなに苦しくて助けて欲しい気持ちだけど、この人にとっての俺は「本日のクライアント」の1人でしかなくて、俺がここを出て行った後は別の人と話をして、仕事が終わったら、俺のことなんか綺麗さっぱり忘れてしまう…

 

当たり前のことだ。当たり前のことだけど、なんだか寂しい気持ちになってきた。

 

面倒くさいな、俺。

 

最後にどうしていくのか、課題を引き出してもらい、次回の日時を決めて30分間のカウンセリングは終了。

 

終わった後は気持ちがスッキリして自信を取り戻せているかと思いきや、思っていた程の効果はなかった。いや、たった一回のカウンセリングでモヤがスッキリする訳はないけど。

 

カウンセリング内で立てた課題も、やっぱり上手くできず。でも「課題はできませんでした」とか言うのも気が引けるから、何か言い訳をして誤魔化してしまっていた。

 

その後、3〜4回くらいカウンセリングを受けたものの、結局、通わなくなってしまった。死にたにえんは止まなかった。

 

俺のことを知らないカウンセラーにお金を払って話聴いてもらうのならば、職場の人や友人や家族に相談にのってもらった方がいいと思った。

頑張ってね、という言葉について俺が思うこと

「頑張ってね」は簡単に口にできる相手への労いの言葉だ。何かに臨もうという人、気合いが必要な人などに向けて使える。

 

とりあえず「頑張ってね」と言えば相手を思いやっている気持ちになれる。何か相手にかける良い言葉が思い浮かばなくても「頑張ってね」と言えば、その会話は乗り切れる。

 

だけど、鬱病の人に「頑張ってね」と声をかけるのは禁句なのだという。「これ以上何を頑張ればいいんだ!」と逆に追いつめられた気持ちになってしまうのだそうだ。

 

それを聞いてから、俺は「頑張ってね」という言葉をあまり安易に使うべきではないなと思っている。

 

今は受験シーズンだ。だけど、翌日が試験日だという受験生に対して、「試験、頑張ってね」と言葉をかけるのは抵抗感がある。彼らは試験の為にこれまでずっと頑張ってきたのだ。

 

だいたい、受験勉強を頑張ってきた受験生が、受験本番を頑張らないわけがない。そこへ「頑張ってね」と声をかけるのは、彼らを追いつめているだけではないか。

 

だから俺は「頑張ったことが報われることを願っているよ」と言うことにしている。これなら今まで頑張ったことを労うとともに、試験へ臨むことへの応援の意味が込められる。今のところ、これが1番しっくりきている。

 

そういえばこの「頑張ってね」という言葉、自分よりも立場が上の人に使うのは失礼にあたる気がする。目上の人に向かって「頑張ってくださいね!」などと声をかけるのは俺の中で抵抗がある。

 

では、目上の人への「頑張ってね」に代わる言葉はないものか。調べてみたところ、いくつかの言葉があったが

 

「お疲れの出ませんように」

 

が一番いい言葉だなと思った。そこには「頑張り過ぎないでください」という相手への気遣いが感じられる。でも、多用すると

 

「うるせぇな、疲れるくらい頑張らないとどうしようもならねぇんだよ。人の状況も知らないくせに。逆にお前の肉体と精神をボロボロに疲れさせてやろうか!!」

 

と思われてしまうかもしれない。恐い。

 

しかし「頑張ってください」だと、

 

「頑張ってんだよ、こっちは。お前とは違って頑張ってる。その言葉をかけられるんだから、お前は頑張ってないってことだよな。そんな頑張ってお前を、生きているだけでも精一杯な状況にさせてやろうか!!」

 

と思われてしまうかもしれない。もっと恐い。

 

そう考えると、やはり安易に「頑張ってね」という言葉をかけるべきではない気がする。

 

確かに頑張らなくてはいけないと思っている時に「頑張ってね」と言葉をかけられても、あまり心の中に入ってこない。それより、頑張ったことがひと段落した後に「頑張ったね」と言われた方が嬉しい。

 

だから、たくさんの「頑張ったね」がもらえるように、もっと「頑張って」いこうと思う。

 

得をして、損ばかりをしている

俺が去年の夏から通っているb-monster。今、友達を紹介した会員に、オリジナルのワイヤレスイヤホンをプレゼントするというキャンペーンをしている。

 

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会員が友達に「お友達紹介コード」を教える。そして友達がトライアルプログラム(体験入会)の予約時に、そのコードを入力すると、通常は3500円するトライアルプログラムを無料で受けられる。もしも友達が入会した場合、紹介した会員にはb-monsterのロゴが入ったオリジナルのワイヤレスイヤホンがもらえるというものだ。

 

友達は無料でb-monsterを体験できるし、会員はワイヤレスイヤホンがもらえる。Win-Winの関係である。

 

このワイヤレスイヤホン、どうやら1万円相当のものだとのこと。決してなんちゃってな粗悪品でないところが凄い。

 

欲しい。無料で1万円のワイヤレスイヤホンがもらえるだなんて、得すぎる。

 

誰か入会を考えている人はいませんか?

 

そう思っていたら、先日、職場での飲み会でb-monsterの話が出てきた。ワイヤレスイヤホンが手に入るチャンスだ!と思った俺は、すぐにその輪に飛び込んで、b-monsterを売り込むことにした。

 

「b-monster、俺、会員なんですよ。ぇ、興味あります? 興味あるんですか? 体験入会の無料クーポンありますよ。通常は3500円するんですが、このクーポン使えば無料になります。行きますか?いや、行きましょう。そして入会しましょう。ぜひ入会しましょう。そうすれば私は紹介者特典としてワイヤレスイヤホンもらえるんです。ワイヤレスイヤホン欲しいんですよ!」

 

とても雄弁にまくし立てる俺。

 

「なんだ、特典目当てかよ。ってか、そういうのでもらえるワイヤレスイヤホンなんて、大したことないんじゃないの?」

 

「いや、それがどうやら1万円相当な品みたいなんです」

 

「1万円ね…でも、それって自称でしょ? もしかしたらイヤホン自体は安物で、そのジムのロゴを入れる為のプリント代が入っての値段じゃないの? イヤホンは100円でプリント代が9900円とかねwww」

 

「いや、それは…」

 

「だいたいさ、そんなにワイヤレスイヤホンもらってどうするの?」

 

「………」

 

…確かにそうだ。

 

俺、もうワイヤレスイヤホン持ってる。しかも1万5000円のやつ。そこに1万円相当(自称)のワイヤレスイヤホンもらったところで、確かに使い道はない。

 

なんだか「おトクだ!」と思っていたけど、落ち着いて考えてみたら、なんて事はないことはある。逆に損している場合だってある。

 

ポイント欲しさに同じ店に通うこともまた同じことだといえる。

 

俺は家電や電子機器、コンタクトレンズなど、ある程度の値段がするものはビックカメラで買うと決めている。何故なら10%のポイントがつくからだ。1万円買うと1000円分のポイントがつく。おトクだ。

 

ポイントを貯めるようになってから、毎週のようにビックカメラに通い、何かしらを買っていた。買った後、帰りのエスカレーターに乗りながらレシートを見て貯まったポイントを眺めるのが楽しみだった。

 

そんなある年に俺は転職をした。そして、転職をしたことで、ビックカメラのある駅が定期券外になってしまった。

 

これは困った。

 

他の店に乗り換えたくはない。今度は定期券内にYドバシカメラがあるのだが、Yドバシカメラじゃダメだ。ビックカメラじゃなきゃダメなのだ。

 

そこで俺はどうしたか。そう、定期券外になっても、ビックカメラに行くことは変えなかった。もちろん、定期券外だから、別途、運賃が発生する。

 

1番安く行けるビックカメラで往復約400円。これは4000円の商品を買うと付与されるポイントと同じだ。

 

4000円の品物をポイントのつかない店で買うのと、交通費がかかっても400円分のポイントがもらえる店で買うのとではどちらが得か?

 

さぁ、賢明な読者のみなさんならば、すぐにその答えが出せるはずだ。

 

そう、賢明な読者のみなさんが考える通り、得なのは400円の交通費を出してでもポイントをもらうことである。

 

さすが、頭がよろしい。

お先にどうぞ

この前、運送会社だったか引っ越し会社だったかのトラックの後ろに、こんな文言が書いてあった。

 

「このトラックは一般道では法定速度を遵守し、安全第一で運転しています。お先にどうぞ」

 

どういうことだろうか。

 

法定速度で走っている車を追い抜いたら、追い抜いた車は「法定外速度」で走っていることになる。お先にどうぞ、も何もあったものではない。むしろ、追い抜いてはいけない車ではないか。

 

だが、待てよ。これは計算でやっている可能性もある。追い抜こうとするドライバーに「法定速度を守っていない」と認識をさせることで、追従する車は法定速度を守るように仕向けているのではないか。だとしたら、策士である。

 

車の法定速度で思い出した話がある。

 

自転車で公道を走っていて、いつもはそんなでもないのに、何故かその日は車の量が多い時がある。いつもよりもゆっくりと走っているから、車が連なっている状態なのだ。

 

そしてしばらく走っていくと全ての合点がいく。スピードの取り締まりをしているのだ。だから、みんないつもよりもゆっくり走っていて、そのせいで車が連なり、混んでいるように見えたのだ。

 

警察がいなければ法定速度を超えて走っているくせに。なんだか、先生がいない時はサボったりふざけたりしているのに、先生が来た途端にマジメになる学生のようだ。

 

普段、法定速度を守らないドライバーがいかに多いかということが分かる事例だった。

 

そんな彼らはぜひとも俺を見習って欲しい。

 

なんと俺は免許をとってから10年近く、車で交通違反をしたことがない。法定速度を破ったこともないし、横断歩道を歩行者がいるのに突っ切ったこともない。

 

だから、これまで事故を起こしたことがない。それどころか、免許をとってから車にかすり傷ひとつつけたことがないのだ。当然であるが、そんな俺は優良ドライバーとして、ゴールド免許である。

 

免許証はいつでも持ち歩いている。先日はネットカフェの会員証を作るときに使用したし、ブックオフで本を売るときにも使用した。

 

別に運転免許をとったからといって車の運転をしなければならない訳ではない。免許を身分証として使うのも1つの方法だ。

 

そう、俺はゴールドの免許証をもつ「神ドライバー」なのである。

 

私も罹ったの大人病…

気がつくと自分はいつの間にか「いい年」になっていた。

 

10代の頃は30歳までに自分は死んでいるだろうと思っていたけれど、のうのうと生きている。

 

教員を辞め、一般企業といわれる社会に入って気づいたことは、俺くらいの年は「いい年」なんだということ。もう、自分と同世代の人はほとんど結婚していて、子供もいる。自分よりも年下の人が結婚して子供がいて、一家の大黒柱になっているのを見て、この頃は少し焦ったりするようになってきた。

 

「大人になんかならないぜ。俺はいつだって子供の気持ちでいたいんだ!」

 

と思っていた。安定した仕事に就き結婚して子供がいて、奥さんの愚痴なんかを酒の席でこぼしたりして、みたいな「普通の幸せ」で落ち着いているような人にはなりたくない。

 

しかし、ここにきて周りがみんな「普通の幸せ」を享受しているのを見て、ひょっとしたら自分は「普通」にさえ達することができない、劣った人間なのではないかという不安に陥ってしまうことがある。

 

これは「大人病」というやつかもしれない。大人にならないといけない、大人なのだから色んなものから卒業しなくてはいけないと焦る病。好きだったものや、自分の価値観なんかを変えなくてはいけないという焦燥感。それに心を掻き回されるようになった。

 

この職業に転職して、なんだか玉手箱を開けたような気持ちになっている。今まで止まっていた時間が一気に自分に襲いかかって、色んなことを終わらせようとする。

 

大人にならないといけない。そうしないと、どんどん社会から離れてしまう。人として認められなくなってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…というところまで記事を書いて思ったのだけれど、そんなこと考える必要はあるのか?

 

別にそれはそれでいいのではないか。大人げなくたって、同世代の人との価値観がズレていたって、別にそれでいいのだ。

 

というか、これまでの自分の人生は「自分は自分」をずっと貫いてきたわけで、ここにきて「周りの人に比べて自分は…」だなんて、何を悩んでいるのか。今までずっと「普通じゃない」と言われ続けてきても変わろうとしないどころか、「これが俺だ!」と自分のスタイルを貫いてきたではないか。

 

もう、今さら手遅れだ。自分は普通の人が手にするような落ち着いた人生を歩むことはできない。諦めるしかない。

 

周囲が結婚していようと、子供がいようと俺には関係のないことだ。俺は今、結婚なんて自分とは別の世界の出来事だと思うし、自分の子供なんて想像すらできないし、まだ自分は神になりたいと思っている。

 

だがしかし。貫くなら徹底的に貫かねばならない。中途半端だと、結局どっちつかずで路頭に迷うことになる。神になるなら神になれるだけのことをしなくてはいけない。

 

いいじゃないか、神だって。今の世の中、たくさんの「神」だらけだろ?

 

大人病

大人病

 

 

 

少女フィクション (通常盤)

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