ジーコとケンジの欲望の記録

雨ニモマケテ、風ニモマケテ、慾マミレ、サウイウヒトガ、コノワタシダ

決まりを守らないことはできない俺の話

ある日、俺は駅から自宅までの道を自転車で走っていた。時間は0時過ぎくらいだったと思う。

 

途中、赤信号だったので止まった。だが、遅い時間だったので車は走っていない。周囲に人の姿もない。しんと静まりかえっている中、赤信号が俺の帰りを妨害している。

 

「いいや、渡っちゃえ!」

 

俺はペダルに足をおいて赤信号を突破した。車が通らないのに立ち止まっている時間ほど無駄な時間はない。早く帰りたかった。

 

その日は運が悪かった。信号を渡った先にパトロール中の警察官が2人、立っていたのだ。しかし、少し距離があったことや別の方向を向いていた為、向こうは俺の信号無視に気づいていない様子だった。

 

俺はすぐにハンドルを返して別のルートを走り出した。俺が認識していないだけで、もしかしたら彼らは俺の信号無視を見ていたかもしれない。あるいは、俺が来るのを待ち構えているのかもしれない。自ら火の中に飛び込むなんて馬鹿げたこと、できるものか。

 

そして警察の視界から姿を消し、ほっと胸をなで下ろした。あとは、少し遠回りをしていけば大丈夫。いやぁ、ヒヤヒヤしたぜ・

 

「ちょっと、すみません、止まってください!」

 

その時、バイクの音と同時に後ろから俺を呼び止める声がした。ドキッとして振り返ると、そこには1台の白バイに乗った警察官の姿が。

 

しまった、逃げられなかったか…

 

抵抗すると事態を余計にこじらせるだけだと考えた俺は、素直に警察の停止の命令に従った。

 

そして逃げも隠れもしないという素振りをし、警察館と対峙した。

 

「はい、どうかしましたか?」

 

「今、あなた、私たちの姿を見て急に道を変えましたよね?」

 

「え、そうでしたか?」

 

「はい、私たちにはそう見えました。何かやましいことでもあるのではないかと?」

 

何か嘘を言わなくては!と一瞬考えたのだが、これまでの人生経験から嘘をついたところでロクなことが起こらないことは学んでいる。嘘をつくことで話が余計にややこしくなるのは避けたい。

 

「えっと…その…信号無視をしてしまいまして。信号無視をした先に警察がいたので、マズいと思い…その…思わずハンドルを切ってしまいました」

 

「じゃぁ、守れや! 悪いことをしているという認識があるならば、ちゃんと信号は守りなさい」

 

急に説教モードに変わる警察官。

 

「今、話を聞きました。どうやら信号無視した為、我々の姿を見て逃げたそうです」

 

肩の無線を外して、おそらくもう一人の警察官であろう人へ連絡している。

 

そして再び俺に向き直り、信号無視したことを叱責。それから俺の乗っている自転車が盗難車ではないか、番号をとられて本部らしき場所へ照会された。盗難車ではないことを確認すると「信号は守って」と最後に念を押され、俺は解放された。

 

それ以来、俺はその信号はしっかりと守るようになった。先日、その信号を無視した人が、渡った先で警察官に注意を受けているのを見た。危ない。本当に無視して渡った先にどんなトラップが待っているか分からない。

 

悪いことはするものではない。どこで誰が見ているか分からない。そんなことを考えてしまう俺は、この先、決して悪人にはなれないのだということを痛感した。いや、なってはいけないんだけどね。

 

 

Macにシールを貼る、ということについて

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Macは美しい。

 

コンピュータとして使えるだけではない。それをもっているだけで、嬉しくなるし部屋に置いておくだけで映える。なぜ、こんな芸術的なコンピュータが評価されないのか。なぜ、世の中はWindows向けに出来てしまっているのか。

 

そしてそんな芸術品としての価値があるMacにシールを貼る人たちがいる。Macにシールを貼ってもいいのかという問題は、Macユーザーの大きな論争となっている。それがいつか戦争へと発展しかねない状況だといっても過言ではない。

 

俺はどちらかというと反対の立場をとっている。特に俺が解せないのは、貼っているシールは往々にして企業のロゴのものが多いということ。LINE、FacebookTwitterGitHubクックパッド…エトセトラエトセトラ

 

なぜ、みんな企業のロゴシールを貼りたがるのか。その人には、そんなにたくさんのスポンサーがついているのか。そして、そのMacはスポンサーからの資金で購入しているのか。

 

企業のシール以外なら許される、という訳ではない。せっかくのMacをシールでベタベタにして、「これが俺のMacだぜ(ドヤァ」とかやっている人は、個性の主張の仕方を間違っていると思う。

 

だいたいAppleの気持ちを考えたことがあるのか。カリフォルニアでデザインされた、自分たちの芸術品をそんな風に勝手にデコレーションされるだなんて不本意に違いない。デコレーションする必要がないくらい洗練したデザインにしているに。Appleのデザイナーのジョナサンアイヴも怒り心頭だろに発していることだろう。

 

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だからMacには何も貼らず、そのままを使うべきだと思う。

 

Appleもそう思っているはず。

 

…と思ったら、Appleがこんな動画をつくっていた。Macを利用しているアーティストを紹介する動画である。

 

 


Behind the Mac — Grimes

 

お分かりいただけるだろうか。

 

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この女性は、Macビックリマンシールを貼っているのである。

 

なんということだ…

 

これは…

 

くそダセェ…

 

しかし、だ。こんなシールベタベタのMacを、Appleが公式に「こんな風にMacを活用してる人がいますよ」として広告をうっている。これはつまり、Appleは「Macにシールを悪とはしていない」という見解を示しているということか。

 

ええんか?

 

Macにシール貼っても、

 

ええのんか…?

 

そう思うと、Macにシールを貼って「これが俺のMacだぜ(ドヤァ」とやるのも悪くない気がしてきた。

 

考えがこの広告を見てひっくり返った。

 

やっちまうかな、俺…

レジーナたんは引きこもりたい

今年で一緒になって7年目になる、レジーナたん。

 

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そう、MacBookProである。

 

初めてRetinaディスプレイMacBookを買ったのでRetinaからレジーナという名前をつけた(というか、そもそもMacBookPro 13インチ初のRetinaディスプレイ搭載モデルだった)

 

発売が2012年で、発売後にすぐに買ったから満6年。iPhoneは2年だけの関係なのに対し、彼女はずっと母艦PCとして俺を支えてきてくれた。

 

そんなレジーナたんだが、去年頃からバッテリーに気になる文字が表示されるようになった。

 

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「バッテリーの交換修理△」

 

ググってみたところ、バッテリーが劣化しているので交換をしてね、というものだそうだ。調べたらバッテリーの充放電回数は113回だった。

 

確かにバッテリーの減りの早さを感じるようになった。しかもまだ30%は残っていたはずなのに電源が落ちる、という事態も発生していた。

 

まぁ、自宅で使うのは電源をつなげばいいのだから何ら問題はない。だがしかし、これでは外に持ち出すことが出来ないではないか。外に持ち出すことが出来ないということは、休日、外でプログラムの勉強することが出来ないということである。

 

「いや、プログラムの勉強を外でする必要なくない?」

 

と思うかもしれない。しかし、それではダメなのだ。ほら、俺って、休日ずっと家にいると病んでしまうじゃないですかぁ?

 

それまで、レジーナたん(MacBookPro)とは別に、外に持ち出す為のMacBookを利用していた。エンジニアを目指していた頃、仕事帰りにスクールやカフェに寄ってプログラムの勉強をしていた。俺が苦労していた時に支えてくれた相棒だったのだが、去年、金欠でお金をつくる為に売ってしまった。なかなか薄情な自分に驚いた。

 

MacBook無き後、MacBookProを持ち出し機にしようとしたのだけれど、このようなバッテリーの状態だから、持ち出すにも電源アダプターが必要になる。それでも出先が電源利用可でなければアウトだ。

 

どうしたものかと調べたところ、アップルストアに持っていけば2万円程度で即日修理してくれるとのことだった。そこでアップルストアへ持ち込んでみたのだが

 

「あー、これはビンテージモデルになってますね。もう、昔のマシンなのでパーツの生産が終了しちゃっているんですよ。在庫も無いので、せっかく持ってきてもらったところ申し訳ないのですが、バッテリー交換はできません。電源アダプター繋げて使っていただくか、もしくは新しいMacBookProへ買い換えるかのどちらかですね」

 

なんてこった。ぱんなこった。

 

バッテリー交換ができないだなんて。

 

その日から俺は考えた。選択肢は2つ。新しいMacBookProを購入するか、持ち運びに特化したMacBookを購入するか。

 

説明するとMacBookとMacBookProとは「持ち運び重視」か「性能重視」かの違いだ。MacBookは0.9㎏と1㎏を切る軽量さと薄さが特徴。持ち運ぶのにはとても優れているのだが、その分、性能は劣る。動画の編集みたいな重たい処理には使えない。あくまでもメインで使うマシンをもっていて、そのサブとして使うのがMacBookだ。

 

一方で、MacBookProは名前に「Pro」とついているので性能は高い。動画編集は当然のこと、Windowsを入れてMacWindowsの同時使いみたいなこともできる。質量は1.3㎏とMacBookに比べて重く、値段も25万円弱する。ちなみにMacBookは14万円ほど。

 

さて、どうするか。持ち運び重視でMacBookにすべきか。それとも、メインパソコンごと変えて二代目レジーナたんとして襲名させるか。いうて1.3㎏なら持ち運べそうだしな。ちなみに今のMacBookProは1.6㎏だ。

 

悩みながらダラダラとスマホをいじっていると、「ヤフオク」のページを開いていた。

 

そこで何の気なしにMacBookと入力して検索すると、残り1日で7万円になっているものを発見した。

 

マジか。もしも、MacBookを7万円で落とせたら、そしてそれを持ち運べたら、俺のプログラム学習はサクサクと進むはずだ。7万円だったら分割にしても年内には完済できるだろうし。

 

そんなことを考えていたら、いつのまにか入札していた。定価だと15万。それを7万円で買えるならいいだろう。この先上がっても10万円。10万円までなら出そう。


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…って思っていたら、10万円で落札してしまった。落札してから「しまった」と思った。ただでさえ今は金欠なのに、そこへさらに10万円の買い物をしてしまうだなんて。

 

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やっちまったな。なんでこんなことをしてしまったんだ。

 

「でも、落札したものは取り消せないし。それに落札できたということは、きっとこれは神からのお告げなのだな」

 

後悔は数秒で終わり。やってしまったら仕方ない。これはもう突き進むしかない。

 

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そして届いたよ。MacBook

 

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2回目のMacBook

 

ということで、レジーナたんは自宅で動画編集など重たい作業をする時に母艦PCとして使用する。 

 

MacBookは外で使う。外で使うとなると、外に出なくていけない。外に出ると鬱にならない。鬱にならないと、色んなことに対して意欲的になれる。色んなことに対して意欲的になれるということは、生産の上がる生活ができる。それはつまり、大金持ちだ。大金持ちからの大爆笑だ。

 

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考えてみてほしい。これで俺の生産性が上がるかもしれないのだ。10万円の投資で、10万円以上のリターンを、このMacBookで手に入れたら良いんだ。

 

大丈夫、俺ならできるよ、大丈夫。だって、今もこうしてMacBookでブログを更新しているのだから…

 

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さっそくキャッフェにMacBookを持ち込んだし。

 

どやぁ!

 

だけど時間はいつも無い

成功者の条件の一つは「ポジティブシンキング」なのだという。常に物事を前向きに考えていけば建設的なアイデアも浮かぶし、表情も明るくなるから自然と人が集まってきやすくなる。そんな話が色んなビジネス書に共通して書かれていた。

 

それについての例えでよく出されるのが「半分のコップ」の話だ。

 

「コップの中に水が入っている。これを『半分しか入っていない』と考えるか、『半分も入っている』と考えるか…」

 

後者はポジティブな考え方。無いものを嘆くよりも、今あるものを最大限に生かしていこうということなのだろうか。なるほど、確かにこういう考え方ができる人は成功しそうな気がする。

 

しかしその理屈なら「まだ日数はたっぷりある」と涼しい顔をして、夏休み最終日に夜中まで宿題を片付けていた俺は大成功者になっているはずである。

 

先週は3連休だった。この3日間で、積ん読本や録り溜めていたテレビ番組を消化したり、プログラムの勉強をしたり、ブログ記事を書き溜めていくつもりだった。先週の金曜日はそういう週末を予定していた。金曜日の夜は意気込んでいた。3日間も自由にできる時間があるのだから、予定は全て実行できると思っていた。

 

そして連休明けは

 

「よぉし、充実した休みを過ごせたぞ。さて、今週からまた頑張るぞい!」

 

という気持ちで仕事を始める予定だった。

 

しかし、である。本は1冊だけ(1冊も、といえばいいのか?)しか読まず、撮り溜めた番組は1度も再生されず、プログラムの勉強も進まず、ブログ記事はその日のものを更新しただけだった。

 

連休最終日に「これはマズい」と危機感をもった俺は、今日これまで何をしていたのか振り返る為に1時間ごとにやったことを手帳に記録しようとした。そしたら今度は「1時間ごとの記録をつける」という計画さえも失敗に終わった。

 

「まだ半分も入っている」という思考でいたら、全てが失敗に終わってしまったのだ。そして連休明けの今朝は「何もしなかったな…」という自己嫌悪がのしかかった状態で職場に向かっている。何がポジティブシンキングか、と言いたい。

 

そもそも、誰がこの「半分のコップの話」をし出したのか。「コップ 半分 まだある」で検索してみたら、ある記事にこんな引用をしているものを見つけた。

 

 

「コップに『半分入っている』と『半分空である』とは、量的には同じである。だが、意味はまったく違う。とるべき行動も違う。世の中の認識が『半分入っている』から『半分空である』に変わるとき、イノベーションの機会が生まれる」

(P・F・ドラッカーイノベーション起業家精神』)

 

一時期流行った「もしドラ」で、その名を知ったドラッカーの言葉である。もしかして彼が最初に言い出したのか? 

 

もしそうだとすれば、これは「半分空である」の方が良いみたいな言い方に捉えられる。イノベーションの機会は「半分空である」の時に生まれるのだから。

 

良い行動がとれるのは「半分しかない」の方だということか。

 

それならば、これからは自分に時間のプレッシャーを与えていくようにしなくてはいけないな。3日間ある、ではなくて、3日間しかない。

 

そうやって自分を追い込んでいくようにしよう。そもそも俺は「褒められて伸びたいけど、叱られて伸びるタイプ」だったことを思い出した。他人に叱られる前に自分を叱らないと。ぼーっと生きてんじゃねぇよ!ってね。

 

 

引用元はこちら

ドラッカーが説く「コップの水」理論とは? | リクナビNEXTジャーナル

 

 

 

 

大人になって流行にのれるようになった俺の話

世の中の「大人」の方々は、今の流行を追えなくなったり、流行にケチをつけ始める生物だと思っている。若者が楽しんでいる姿を横から見て「それの何が楽しいのか。最近の若い子は分からない」と否定するのが、大人。「あの頃はよかった」と想い出に浸るのが、大人。


だけど、俺は大人になるにつれ、流行に対して寛容になってきている気がする。


小学生の頃、俺はみんなと同じものを好きになるのが嫌だった。そして、みんなが聴いている音楽やテレビ番組、漫画などを否定することこそが、大人だと思っていた。みんなよりも大人でありたい、という背伸びが完全に間違った方向へいってしまい、とにかく流行というものを否定していた。「最近の若い奴らは…」と言ってみることで、周りよりも上に立てている気持ちになれた。

 

プリクラは絶対に撮らない主義を貫き、若者言葉を聞けば「日本語が乱れている!」と喚き、アイドルを「顔がいいだけでテレビに出られている頭の悪い奴ら」とこき下ろし、流行っていたテレビ番組も「くだらない!」と見たこともないのに否定していた。小学生の頃から一丁前に文庫本を持ち歩いていたから、マンガなんて頭の悪い奴が読むものだと決めつけていた。

 

それは小学校高学年くらいにピークを迎え、懐メロや演歌を聴いては「やっぱり、昔の日本の曲が最高だ。愛とか恋しか歌わない今の歌とは大違い」と感慨に浸り、安室奈美恵やSPEEDや小室ファミリーGLAYスピッツで盛り上がる流行の音楽を徹底的に拒否した。サザンオールスターズはその時から好きだったが「彼らは『最近の若いアーティスト』じゃないからいいんだよ!」という理由で正当化していた。

 

流行を否定しなくなったのは、大学生になってからだ。その時、レンタルビデオ店でアルバイトをしていたので、自然と流行の音楽や映画などの情報が入ってきたし、自分もそれを取り入れようという気持ちになれた。


そして大人になるにつれ、流行を否定する姿勢から受け入れる姿勢が強くなっていった。TSUTAYAのCDランキング棚にあるシングルCDを上からレンタルして聴いてみるなんて、昔なら絶対に考えられなかった。


大人になってから流行にのることが面白いと思うようになった。流行にのることで、世界が広がっていき、世界と繋がっている感じがする。仮にそれが自分に合わなかったとしても経験は得られるし、「なんでこれが流行しているんだろうか?」と社会を俯瞰してみることも楽しい。


だからこそ、流行を否定することが格好いいと思っていたことをとても悔やんでいる。ドラゴンボールスラムダンクを観ておけばよかったな、もう少しアイドルとかに興味をもてばよかったな、漫画をもっと読んでおけばよかったな…エトセトラエトセトラ


同世代で過去の話をしても、話題についていけないことがある。そういえば学生の頃、付き合っていた彼女から「ドラゴンボールを読んだことがないだなんて、あなた人生を損しているわよ」と笑われたりもした。

 

否定することは簡単だし、否定することで自分が優位に立てたような気持ちになる。しかし、それによって自分の世界を狭めてしまうし、世間からどんどんと取り残されていく。

 

大人になってからそのことに気づけた。逆に子供の頃にそれをやってよかったのかもしれない。

 

これからは世の中の動きに寛容になっていけそうな気がする。

空白を開けるのはダメだと思うから

今週は火曜日から毎日ブログを更新してきた。

 

行き帰りの電車の中だけでは間に合わず、家に帰ってからも続きの文章を更新していた。

 

その努力もあって、今週は月曜日以外ずっと更新できたのだから、自分で自分で褒めてやりたい。

 

だがしかし、そんなガツガツとブログの更新ばかりを考えていたせいで、それ以外のことが疎かになってしまっている。

 

例えば、今年は読書を習慣化させようとしており、帰宅後は1〜2時間程度の読書時間をつくってみようと思ったのだ。しかし、ブログを更新することころには疲れ果て、何もできない状態になっているので読書はできていない。

 

そこまで自分の時間をブログにかける必要ってあるの?

 

だいたい1つの記事を書くのに1時間半前後かかる。これを行き帰りのスマホで更新し、帰宅したらパソコンでその作業の続きをやるみたいな生活を送っている。

 

いやいや、これだけ時間かかるのは最初だけで、やっていくうちに時間が短縮されていくものだから、続けることが大事!ということなのかもしれない。最初だけなのだ、と思うことで少し前向きに動けるような気がしてくる。

 

だけど、この「やっていくうちに体が慣れる」と言われるのには違和感がある。これ、逆の言い方をすれば「体が慣れるまでは地獄を味わってもらおうか」ということではないか。地獄をひたすら突き進めば、やがて「慣れ」という天国にたどり着くということなのか。では、実際、どれくらいやっていけば慣れていくのか。

 

ただ、1つ言えることがある。ここで空白をつくってしまったら、またしばらく空白だらけの日常を送ることになる。慣れる前に止めてしまう。地獄を抜ける前に、地獄の入り口に戻ってしまう。だから俺は、毎回ブログを再開するたびに地獄をぐるぐるしているような気持ちになるのだ。

 

ちなみに、このブログを更新しているのが2019年1月14日の1:18。しかし、投稿するのは昨日の日付にしようと思っている。1日の始まりは0時を過ぎてからではない。寝て起きてから1日が始まるのだ。だから、いくら0時を過ぎようが、まだ寝ていないので日付は13日なのだ。

 

そのブログを眠い目を擦りながらキーボードを叩いている。もしもここで寝落ちしたら、今、書いているこれは14日のブログになってしまうのだ。耐えろ、耐えるんだ。13日のブログとして投稿する為に。

 

ということで、今日も空白を開けずに更新をする。眠気に耐えながらの更新なので、誤字や脱字や支離滅裂な文章は許していただきたい。

 

この文章が夢の中で打ったものではいことを祈りながら、俺は左下にある「公開する」ボタンに手をかけようとしている。公開して後悔するんだ。

身体を動かせば、心も動くのか?

エンジニアになってから、仕事で体を動かすことが無くなった。まぁ、そういう仕事なのだから当たり前といえば当たり前なのだが、授業中に飛んだり跳ねたり叫んだりしていた教員時代とのギャップはかなりのものだ。

 

そして、そのギャップに苦しんでいる。どんよりとしたものがずっと心にこびりついている感覚だ。


そこで、体を動かそうと、去年の夏から暗闇ボクササイズのb-monsterに通っている。45分間、筋トレしたり、シャドーしたり、サンドバッグを殴ったりとかなりストイックなので、終わった後は汗で服や下着がビッチャビチャのグッチャグチャになる。やたらと目に汗が流れてくるので、最近はヘアバンドをつけてトレーニングをしている。


週3日くらい通っていた甲斐もあり、体も少し絞れてきた。前までは脂肪の塊だった肉体も、少しは凹凸が出来てきた気がする。


身体を動かせば心も動いて、精神的に健康になれるだろうと思っていた。最初は動けず、自分の体力の無さを恨んだり責めたりするが、そのうち慣れて自分のことを好きになるだろうと。


しかし、意外とそうはならなかった。運動後のスッキリ感は次の日の朝くらいに無くなり、どんより感は拭えなかった。


そういえば、この頃では休日の過ごし方も変わった。以前は家にいると鬱になるからと、とにかく外出するようにしていたのだが、最近では家に閉じこもりがちになっていた。休日もb-monsterに行くのだけど、終わったらどこかに行くわけでもなく、そのまま家に帰る。


今の生活に何も不満はないはずだ。やりたい仕事に就けたし、身体も動かしている。それなのに、このどんよりとした気分はなのだろうか。


そんな中、去年の年末年始の休みで、久しぶりにロードバイクを引っ張り出して走ってみた。


ロードバイクを購入して7年。購入してから一度も変えてないパーツもあったりして、結構あちこちにガタがきている。ブラケットカバー(ハンドルのゴムの部分)は劣化してベトベトになってるし、ワイヤーのカバーはヒビ割れている。最近はギアを切り替えるレバーが不調で、ギアが切り替わらない問題が発生した。

 

これを全てメンテナンスしてもらうとなると、また結構な値段がかかるのだろうな。別にロードバイク乗らなくても困るわけじゃないし、お金に余裕ができてからショップに持っていこう。


でも、ロードバイクに乗れば、このどんよりとした気持ちが少し晴れるのではないかと考えた。無駄遣いではない。心がしっかりしていないと生きていくことはできない。そう、ある意味で自分の今後に影響を与えるのだ。ことは急がねばならない。


年末年始だったから、いつもお世話になっているショップがいつまで営業しているのか調べようとホームページをアクセスところ、衝撃の事実が。なんと、その店がすでに閉店していたのだ。しかも、半年以上も前に。

 

そこは初めてスポーツ自転車を買った場所。スポーツ自転車デビューしてから、色々と親切に教えてくれた。ここが無くなったら、もう自転車のことを聞く人がいなくなるくらいに思っていたのに、そのショップがまさかの閉店という。


それを朝の通勤時、電車の中で知り、あやうく叫んでしまうところだった。


大宮にもその店舗があるということなので、年明け最初の営業日に行ってみることにした。


ブラケットカバー、ギアのレバーの改修、ついでにバーテープとワイヤーの交換を依頼した。費用は15000円。しかし、純粋なパーツ代だけならば1万円いかない。なぜなのか?と思ったら、どうやらパーツごとにそれぞれ工賃がかかるらしい。今回はいじるパーツが多い為、その分の工賃も総合すると結構なお値段になる。

 

費用のうち半分近くは工賃だった。なるほど、こういうところで儲けているのか。まったく、良い仕事をしておる。点検は系列店での購入だったので、無料でしてもらえるということだった。


自転車を預け、電車で帰宅。休み中にロードバイクで正月に浮かれる街を暴走してやりたいな、と思っていたら、その日の夜にショップから電話がかかってきた。


「お預かり頂いた自転車、パーツ交換、STIレバー(ギアを変えるレバー)の改善、点検が全て終了しました。かなり乗り心地が快適になりましたよ」


乗り心地が快適に…


もの凄く主観的である。


翌日、ショップへ自転車を取りに行った。店員に改めて「メンテナンスの後、近くを走ってみたのですが、かなり乗り心地が快適になりましたよ」と言われた。それ、別に言わなくてもよくね?


店員にお礼を言い、ショップを後にした。ゴムが劣化してベトベトだったブラケットカバーは、手袋をしなくても触れるようになった。バーテープも、今まで黒だったものを白にしたのでファンシーさが増した。ギアのレバーもしっかり動いていて、快適だった。快適過ぎてしばらくカチャカチャとギアを上げたり下げたりしながら走っていた。

 


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大宮駅から隣のさいたま新都心駅へ移動。天気も良かったので、陽の光を浴びながらボーッとしていた。

 

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この場所から眺める空は格別だ。そういえば、俺が前職を辞めて、最初の平日に見た空もこれと同じくらい晴れていた。

 

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そして昼食にマックを食べる。カロリー的にプラマイゼロだ。むしろプラスか。


空をボーッと眺めながらハンバーガーを頬張る。そんな俺をチラ見しながら、家族連れやらカップルやらが通り過ぎる。


どんな風に思われようと構わない。幸せの形は人それぞれだ。俺は自転車漕いで、1人で空を見上げながらボーッとすることに幸せを感じるのだ。独りでリアルを充実させている、独リア充だ。


リア充をしていて、俺は気がついた。ただ身体を動かせば、心が健康になる訳ではないということを。心を健康にするには、太陽の光を浴びなくてはならなかったのだ。心の光合成が必要だということだ。

 

b-monsterは確かに身体を激しく動かすが、場所は室内だし暗い。昼行性の生物であるヒトは、陽の光を浴びなくては調子が狂ってしまうものなのかもしれない。


2時間くらいボーッとして、再び自転車に乗った。


店員に言われた通り、乗り心地が劇的に快適になっていた。ハンドル周りの改善だけかと思ったが、点検でネジを締めたりオイルを差したりしてもらったからか、とても運転が快適だ。


快適過ぎてこのまま帰るのは勿体無いと思った俺は、しばらく走ってみることにした。ペダリングが快適で、どんどん前に進む進む。疲れをほとんど感じない。


そして気がつくと、上尾駅に着いていた。

 

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さいたま新都心駅から上尾駅までの距離を調べてみたら、約10kmほどあることが分かった。しかし、あっという間に感じた。


そしてある程度楽しんだら、家に帰ることにした。もう、帰りはすっかり暗くなっていた。

 

夜の公道は横を追い抜いていく車が物凄い速く感じる。それに、道路の様子が暗くて見えづらいから、黒い影が、段差で出来ているものなのかどうか分からず、とてもスリリングな運転をした。

 

だから、走り慣れた道に来た時の安堵感は半端なかった。夜に慣れない道は走るものではないと感じた。いや、久しぶりのロードバイクで感覚が少し鈍っていただけかもしれない。そうだ、そうに違いない。決して俺が臆病になった訳ではない。

 

帰宅後は心がかなりリフレッシュしていた。やっぱり、室内に閉じこもってはいけない。室内の閉鎖的な空間よりも、開放的な外に出なくては。そして太陽の光を浴びるべきなのだ。

 

心の光合成、これ、大事。生きる為には心の光合成をしなくてはいけないことを学んだ週末だった。